朝の仕込みは、店の中より先に外から始まる。
木の扉の格子ガラスを拭き、軒下の照明を点け、表に置いたままのバイクのシートを軽く払う。右の壁には配管と電気箱が並び、古い木板の外壁は、湿気の多い朝ほど焦げ茶色に沈んで見えた。
その店で働きはじめて三日目、私は木の扉の前に、水の跡があるのに気づいた。
雨は降っていない。道路も乾いている。けれど扉の前だけ、誰かが濡れた靴で立っていたみたいに、細い半月形の跡が二つ残っていた。
おかしいのは、その跡が外へ向いていなかったことだ。
つま先が、店の中へ向いている。
店長に言うと、まだ炊飯器のスイッチを入れたばかりの顔で、「朝は見ないほうがいい」とだけ言った。
その日から、毎朝同じ跡が出た。
最初は扉の前に二つ。次の日は、木壁に沿って窓の下まで増えていた。さらに次の日には、右側の配管の前で止まっていた。濡れた靴跡なのに、道路には一滴も水が落ちていない。跡は地面に染みるのではなく、木の壁のほうへ吸い上げられるように、板目の隙間を黒くしていた。
匂いもした。
出汁でも、味噌でも、油でもない。閉店後に洗った寸胴の底を、翌朝もう一度嗅いだときのような、冷めた湯気の残り香だった。
ある朝、私はいつもより早く店に着いた。
シャッターのない店だったから、外観は夜のままそこにあった。赤茶のレンガ、黒い小屋根、白い軒下灯、バイク。何も変わらない。けれど右端の配管だけが、息をしたあとの喉みたいに薄く曇っていた。
扉の前には、靴跡が四つあった。
二人分ではない。
一人が、入口の前で二度立ち直したような跡だった。
鍵を差し込もうとしたとき、格子ガラスの内側がふっと白く曇った。店内はまだ真っ暗で、湯も沸かしていない。なのに曇りの中央に、丸い跡がひとつ浮いた。
額の跡だった。
誰かが内側から、ガラスに額をつけている。
私は手を止めた。曇りはゆっくり下へ流れ、ガラスの下端で止まった。そのあと、木の扉の隙間から、まだ冷たいはずの店内の匂いが漏れた。
冷めた一番だしの匂い。
その日、店長は開店時間を遅らせた。
理由を聞くと、店内のカウンターに、お冷が一つ出ていたという。グラスはうちのものだった。氷も入っていない。ただ、内側に薄い水滴がついていて、底には丸い輪染みが残っていた。
誰も入っていないはずの朝に、誰かが座ったあとだけがあった。
翌週から、私は外掃除を任されなくなった。
それでも、仕込みの時間に裏から店へ入ると、時々、表の扉のほうで木が鳴る。こん、でも、ぎし、でもない。湿った靴底が、古い板を一歩だけ踏む音に似ている。
店長はそのたびに、まだ開けていない入口へ向かって小さく頭を下げる。
「一番、入ってます」
それは予約の確認でも、客への挨拶でもない。ただの癖のように見えた。
けれど、その声のあとだけ、厨房の火がつきやすくなる。鍋の湯が早く沸く。米がきれいに炊ける。だから誰も、それ以上は何も言わない。
先月、店の外壁を塗り直す話が出た。
古い木板の傷みがひどく、特に右側の配管の下だけ黒ずんでいるからだ。業者が来て、板を一枚剥がした。
その裏から、紙が出てきた。
昔の伝票だった。油を吸って茶色くなり、文字はほとんど読めない。ただ、一番上にだけ、鉛筆の薄い字が残っていた。
「開店前 一名」
その下には、注文名が書かれていなかった。
代わりに、湿った指で押したような跡がいくつも並んでいた。指紋ではない。湯呑みの底でもない。小さな皿を、何度も同じ場所に置いたような輪の跡だった。
業者は気味悪がって、その板を外へ立てかけた。
昼になるころには、紙は乾いていた。けれど板を元の位置に戻すと、そこだけまたじわりと黒くなった。まるで外壁が、内側から湯気を含み直したみたいだった。
今も開店前の店先には、ときどき靴跡が出る。
朝の光の中で見ると、ただの濡れた跡にしか見えない。木の壁も、バイクも、配管も、古びた飲食店のいつもの風景だ。
でも一度だけ、私は見てしまった。
入口を開ける直前、右の窓ガラスに、店内のカウンターが映った。椅子は全部上げたままのはずだった。
そのうち一脚だけが、下りていた。
椅子の前には、湯気のないお冷がひとつ置かれていた。
そして木の扉の外側、ちょうど私の足元に、濡れた靴跡が二つ。
今度は、つま先がこちらを向いていた。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

