雑居ビルの一階に、二十四時間営業のカプセルトイコーナーができた。以前は清掃道具などをしまっていた、ごく小さな物置だったという。広さは半畳ほど。ガラス張りの入口を開けて中に入ると、カプセルトイの機械が並び、人が一人立つだけで身動きが難しくなる。
外には大きな青い看板が掲げられ、赤い文字で「24H」と書かれている。隣には古い飲料の自動販売機があり、道路との間には緑色のガードレールが通っていた。昼間は明るく、いかにも手軽な無人販売所といった雰囲気だったが、夜になると様子が変わった。周囲の店が閉まり、人通りが途絶えても、その狭いガラス張りの区画だけは白い照明がついている。中がよく見えるだけに、何かが動けば、外からすぐに分かる造りだった。
営業を始めて二週間ほど経った頃、ビルの管理会社に奇妙な連絡が入った。深夜、カプセルトイを買おうとした客が、入口に人がいるので入れなかったという。中には灰色の服を着た女性がいて、背中を向けたまま、じっと立っていたらしい。客はしばらく待っていたが、女性が動かないため、そのまま帰ったそうだ。
ところが、翌朝の点検では異常が見つからなかった。機械の売上にも不審な点はなく、床にゴミが落ちているわけでもない。ただ、ガラス扉の内側に、細い引っかき傷のようなものがいくつか残っていた。設置作業中についた傷だろうと考えられ、特に問題にはされなかった。
同じような話が、その後も続いた。
深夜一時を過ぎる頃、狭い店内に女性が立っている。年齢は四十代から五十代くらい。灰色の薄い上着を着て、うつむいたまま動かない。声をかけても返事をせず、顔も見せない。しばらく目を離してから見直すと、誰もいなくなっているという。
おかしなことに、その女性が店から出てくるところを見た者はいなかった。入口は一か所しかなく、窓もない。ガラス越しに店内を見渡せば、隠れられる場所などないはずだった。
ある晩、商品の補充を担当する作業員が、閉店後の周辺店舗を回っていた。カプセルトイコーナーは二十四時間営業だが、商品の補充や機械の点検は人通りが少ない深夜に行われていた。作業員はその日、動作の悪くなった機械を確認するため、午前一時半頃に現場を訪れた。
ガラス扉を開け、中へ入った。狭いので工具箱は外に置き、体を横向きにして奥の機械を調べ始めた。背後にはすぐガラス扉がある。少し前屈みになるだけで背中が触れそうな距離だったという。
作業を始めて間もなく、背中に何かが当たった。
最初は扉にぶつかったのだと思った。しかし、背中に触れているものが、ゆっくりと動いた。肩甲骨のあたりを下から上へ、何本もの細い指が這い上がってくるような感触だった。
驚いて振り返ろうとしたが、狭すぎて体を回せない。無理に肩をひねり、ガラス扉へ顔を向けた。そこには何もなかった。
気のせいだと思って作業を再開すると、今度は耳元で息をする音がした。ひゅう、ひゅう、と喉の奥が詰まったような苦しそうな呼吸だった。右の耳のすぐ後ろで聞こえる。吐く息が首筋に当たり、生温かいものが襟の中へ入り込んできた。
作業員は工具を落とした。
振り返った瞬間、ガラスに女の顔が映っていた。
すぐ後ろに立っていた。灰色の上着を着た、頬のこけた中年の女だった。顔色は青黒く、唇が不自然なほど紫色に変色している。目は大きく開かれ、焦点が合っていない。口を半開きにしたまま、作業員の肩越しにガラスの向こうを見つめていた。
作業員は悲鳴を上げ、扉の取っ手に手を伸ばした。
開かなかった。
鍵はかかっていない。それなのに、いくら力を込めても扉が動かない。背中では女の体がぴったりと密着し、呼吸に合わせて胸が膨らんでいるのが分かった。冷たい指が肩をつかみ、布地の上から爪を食い込ませてくる。
女の顔が、肩の上からゆっくりと前へ出てきた。
口が開いていた。歯茎がむき出しになり、奥歯のほとんどが抜けていた。喉の奥は真っ黒だった。作業員の顔のすぐ横で、その口が何度も開閉を繰り返す。声は聞こえない。ただ、腐った生ゴミのような臭いが鼻に入り、吐き気がこみ上げた。
作業員は必死にガラスを叩いた。外では、隣の自動販売機で飲み物を買おうとしていた男性が、その音に気づいた。ガラス越しに見ると、店内の作業員が何かに押し潰されるように前屈みになり、扉を叩いている。
その背後に、女がいた。
男性は後に、警察から事情を聞かれた際にも、その光景をはっきり覚えていると話したという。
女は作業員の背中に覆いかぶさっていた。両腕を作業員の脇の下から回し、胸の前で組んでいる。顔は肩の上に乗っており、濁った目でガラスの外を見ていた。異様だったのは、その姿勢だけではない。作業員の背中とガラス扉の間には、人間一人が入れるほどの隙間などなかった。女の胴体は、狭い空間に押し込まれた濡れた布のように、薄く潰れていたという。
男性は扉の取っ手をつかみ、思い切り引いた。びくともしなかった。中の作業員が口を動かしている。何か叫んでいるようだったが、ガラス越しには聞き取れない。
そのとき、女が男性のほうを向いた。
顎が作業員の肩から離れ、首が不自然な角度に折れ曲がった。青黒い顔が、ガラスに向かって突き出される。女は口を大きく開け、両手を伸ばして扉に押し当てた。
爪がなかった。
十本の指先はどれも赤黒く潰れ、皮膚が裂けていた。剥き出しになった指の先端を、女はガラスに押しつけたまま、ゆっくりと下へ引きずった。
ぎぎぎぎぎ、と硬いものを削る音がした。
男性が思わず手を離した瞬間、扉が勢いよく開いた。中の作業員が道路側へ転がり出てきた。男性は反射的にその体を抱え、ガードレールのところまで引きずって離れた。
二人が振り返ったとき、ガラス扉は半開きになっていた。
女は、まだ中にいた。
機械の前でうつむき、両腕をだらりと垂らしている。顔から何か黒い液体が滴り、床に落ちていた。男性と作業員が見ている前で、女はゆっくりと顔を上げた。白く濁った両目が、二人のほうを向いた。
次の瞬間、女は膝を曲げた。
狭い店内にしゃがみ込むような動作だった。しかし、膝が床につく前に、体がそのまま下へ沈んでいった。頭、肩、背中の順に、機械と床のわずかな隙間へ消えていく。最後に片手だけが床の上に残り、何かをつかもうとするように指を動かした。
そして、その手も消えた。
二人はその場を離れ、近くの交番へ駆け込んだ。警察官が戻ったときには、店内に人の姿はなく、床も乾いていた。ただ、ガラス扉の内側に、五本ずつの深い傷が残っていた。ガラスの表面を爪で削ったような筋で、指先が当たっていた部分には赤黒い汚れが付着していた。
作業員は病院へ運ばれた。背中から肩にかけて十本の細い傷があり、シャツの布地は内側から引き裂かれたようになっていた。医師が傷口を洗浄していると、右肩の深い傷から硬い異物が見つかった。三ミリほどの、灰色に変色した人間の爪だった。
その夜以降、カプセルトイコーナーは営業を停止した。入口には黄色い「調整中」の札が掛けられ、管理会社が改めて現場を確認することになった。
調査の際、古いビルの図面と改修履歴が見つかった。問題の区画は、以前は清掃用具を置く物置だった。さらに遡ると、扉は木製で、外側からしか開けられない簡単な掛け金が取り付けられていたことが分かった。
その物置では、二十年以上前に死亡事故が起きていた。
年末の休業期間中、夜間清掃を担当していた女性が物置の中で亡くなっていたという。発見されたのは休み明けだった。扉には外側から掛け金がかけられており、女性は中から出られなかったらしい。
なぜ掛け金がかけられていたのかは、記録に残っていなかった。
発見された女性は、扉に背中をもたせかけるようにして座っていた。指先の爪はほとんど剥がれ、木製の扉の内側には、無数の引っかき傷が残っていたという。死ぬまでの間、誰かに助けを求めて扉を叩き、何度も開けようとしたのだろうと考えられていた。
事故のあと、物置はしばらく使われなくなった。やがて内装が変わり、古い扉も撤去された。そして近年、空いていた区画を有効活用するため、カプセルトイコーナーとして貸し出されることになったのだった。
管理会社は、物置だった区画を完全に塞ぐことも検討した。しかし、ビルの所有者とテナント側で協議が続き、結局、機械の使用を止めたまま様子を見ることになった。現場には引き続き「調整中」の札が掛けられ、ガラス扉は施錠された。
それからしばらくして、ビルの夜間清掃を担当する別の作業員が、奇妙なものを目撃した。
午前三時頃、隣の自動販売機の前を通りかかると、ガラス扉の向こうに女性が立っていたという。灰色の上着を着た中年の女だった。背中を向け、うつむいたまま動かない。以前の目撃談とまったく同じ姿だった。
作業員は近づかなかった。ただ、少し離れた場所から見ていると、女は両腕を持ち上げ、ガラス扉の内側へ手を当てた。そして指先を、ゆっくりと上下に動かし始めた。
ぎぎぎぎぎ。
音は、通りにまで聞こえてきたという。
作業員はその場を離れ、翌朝になって管理会社へ報告した。担当者が確認すると、扉の内側には新しい傷が何本も刻まれていた。以前の傷とは位置が違い、今度は取っ手のすぐ下に集中していた。
それらの傷は、ガラスを割ろうとしたようには見えなかった。
取っ手のある場所を探り、つかもうとした跡に見えた。
数日後、管理会社は専門業者を呼び、入口のガラス扉を交換することにした。傷の深さを確認するため、取り外した扉を作業台の上に寝かせ、内側から照明を当てた。
すると、ガラスの端に沿って、黒い粒のようなものがいくつも挟まっているのが見つかった。業者が細い器具で取り出すと、それは人間の爪の破片だった。どれも灰色に変色し、表面が脆くなっていた。中には、先端が丸く摩耗したものもあったという。
ガラス扉は新しいものに交換された。入口の施錠も強化され、夜間は開けられないようになった。
それでも、異変は終わらなかった。
新しい扉に交換してから三日目の朝、点検に来た担当者が、ガラスの内側に傷を見つけた。取っ手の下から斜めに伸びる、五本の細い筋だった。さらにその下には、指先を何度も押しつけたような小さな赤黒い跡が並んでいた。
担当者は業者に連絡したが、取り付け時には傷などなかったという。施錠を確認した記録にも異常はなく、その間に誰かが中へ入った形跡もなかった。
現在も、その小さな区画は建物の一階に残っている。
大きな「24H」の看板は以前と変わらず、隣の自動販売機も営業を続けている。通行人の多くは、ガラス張りの入口に掛かった黄色い札を見て、故障か何かで営業を休んでいるのだろうと思うだけだ。
ただ、夜間の巡回を担当する人たちには、一つだけ決まりがあるという。
ガラス扉の前で、人影が見えても立ち止まらないこと。
中にいる女がこちらを見ていても、絶対に近づかないこと。
そして、扉の内側から引っかく音が聞こえても、決して開けてはいけない。
以前、その決まりを知らない警備員が、深夜の巡回中に女性の姿を見つけたことがあった。助けを求めているのではないかと思い、扉へ近づいたそうだ。
女はガラスに両手を押し当て、口を大きく開けていた。顔色は青黒く、指先は潰れていた。警備員が鍵を取り出そうとすると、女は突然、ガラスのすぐ向こうまで顔を近づけた。
そのとき、警備員は気づいたという。
女は、ガラスの外を見ていなかった。
警備員の肩越しに、何かを見ていた。
背後で、ぎぎぎぎぎ、と音がした。
警備員が振り向くと、背中のすぐ後ろに、灰色の服を着た女が立っていた。
顔は、ガラスの向こうにいる女とまったく同じだった。
警備員はその場で気を失い、翌朝、通行人に発見された。背中には十本の深い傷があり、右肩の傷口からは、灰色に変色した爪の破片が一つ見つかったという。
その後、警備員は仕事を辞めた。
カプセルトイコーナーは、今も営業を再開していない。
半畳ほどの狭いガラス張りの空間。
人が一人入れば、それだけでいっぱいになる。
だが、夜中にその前を通りかかると、ガラスの向こうに女が立っていることがあるそうだ。
そして、女が見えなくなったときのほうが、ずっと危険なのだという。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

