左手だけの約束

ウラシリ怪談

その年の秋、ある国際的な捜査機関が、生成AIを悪用した詐欺について新たな警告を発表したそうです。公開されたのは、AIによって作られた三本の短い啓発動画でした。インターネット上にあるわずかな映像や音声から、家族や親しい人の顔、声を本物そっくりに再現できる。そんな技術が、すでに身近な人々を狙う犯罪に使われているという内容でした。

その記事を読んだ男性がいました。四十代の終わりで、高校生の娘と二人で暮らしていたそうです。九年前に妻を病気で亡くし、それからずっと、仕事と家事を一人でこなしてきました。娘が小学校に上がったばかりの頃からです。

男性の家には、小さな赤い手袋がありました。

それは妻が亡くなる少し前、娘のために編み始めたものでした。柔らかい赤い毛糸で、手首から指先へ向かって編み進めていたのですが、親指の途中で止まっていました。病室へ持っていくたび、妻は「今年の冬には間に合うかな」と笑っていたそうです。けれど、結局その冬が来る前に、妻は帰らぬ人となりました。

男性は編みかけの手袋を、小さな透明ケースに入れて保管しました。糸玉も編み針も、妻が最後に置いた位置のままです。娘が成長しても、そのケースだけは居間の棚から動かしませんでした。もう娘の手には小さすぎると分かっていても、処分することはできなかったのです。

警告の記事を読んだ夜、男性は娘にも三本の動画を見せました。娘は学校行事で歌った短い映像が、誰でも見られる場所に公開されていることを思い出したそうです。父親は、ほんの少しの音声でも声を似せられるらしいと説明しました。すると娘は、記事で勧められていたように、二人だけの合言葉を決めようと言い出したのです。

「お父さんが『あの手袋、あと何段?』って聞いたらね、私は『指が大きくなるまで』って答えるの。変でしょ。でも、絶対忘れないよ」

男性は、少しだけ笑ったそうです。あの手袋の話を娘のほうからするのは、ずいぶん久しぶりでした。その夜、寝る前にケースを見た時、編みかけの親指の先に、小さな赤い輪がひとつ増えているように見えました。けれど男性は、照明の具合だろうと思い、そのまま部屋を出たといいます。

翌日の夕方、娘は友人の家に泊まりに行きました。夜九時を少し過ぎた頃、男性の携帯電話に、見知らぬ番号から映像通話がかかってきたそうです。画面には、泣いている娘の顔が映っていました。

「お父さん、お願い。助けて」

声も顔も、娘そのものでした。友人と出かけた先で事故に遭い、相手との示談のために、すぐお金を用意しなければならない。そうしないと帰れなくなるのだと、娘は途切れ途切れに訴えました。背景には薄暗い建物の壁があり、誰かが急かす声まで聞こえたそうです。

男性は振込先を聞きかけて、前夜の動画を思い出しました。ほんのわずかに間を置いて、こう尋ねたといいます。

「……あの手袋、あと何段?」

画面の娘は、一瞬、泣きやみました。

「指が大きくなるまで」

間違いのない答えでした。

その言葉を聞いた途端、男性は喉の奥が冷たくなったそうです。合言葉を決めたのは前の晩、二人きりの食卓でした。誰かに話した覚えもありません。それでも画面の娘は、昨日と同じ声で、昨日と同じように答えたのです。

男性が言葉を失っていると、居間の奥から、小さな音がしました。

かり、かり。

乾いたものが、ガラスの内側をこするような音だったといいます。男性が目を向けると、棚に置いた透明ケースの中で、赤い手袋の先がわずかに持ち上がっていました。編み針は横に置かれたままです。けれど、親指の先にあった糸の輪が、ひとつ、またひとつと増えていたそうです。

「お父さん? 聞いてる? 早くして」

画面の娘が、少し強い口調で言いました。

男性は返事をせず、通話を切りました。そして、以前から知っている友人の家の電話番号へ、震える指で連絡を入れたそうです。娘は何事もなく、友人とお菓子を食べながら話をしていました。事故など起きていませんでした。

娘の無事を確かめた男性は、しばらく電話を握ったまま動けませんでした。詐欺だったのです。それも、たった一晩前に決めた合言葉まで知っている、説明のつかない相手でした。

やがて男性は、棚の前へ行きました。

ケースの封は、九年前から変わっていませんでした。透明な蓋の縁には、妻が入院していた時に貼った、小さな紙の留め具が残っています。それなのに、手袋の親指は、明らかに長くなっていました。前の晩まで三段しかなかった部分が、五段になっていたのです。

男性はケースを開けませんでした。ただ、しばらく見つめていたといいます。妻が編み物をしていた頃、夜になると居間から小さな音が聞こえていました。金属の編み針が、ときどき触れ合う音です。

九年ぶりに、その音を聞いたような気がしたそうです。

翌日、娘が帰ってきました。男性は昨夜の通話と、手袋に起きた異変をすべて話しました。合言葉が知られていたことには娘も驚きましたが、手袋の話になると、急に黙ってしまったといいます。

「……私ね、あの手袋、嫌いだったんだ」

男性は娘を見ました。

「ずっと途中のままでしょ。お母さんがいなくなってから、何年たっても変わらなくて。小さい頃は、あれを見るたび、いつか続きを編みに帰ってくるって思ってた」

娘はそこで言葉を切りました。

「でも、私の手は大きくなっちゃった。帰ってきても、もう使えないよね」

男性は何も答えられませんでした。

それから数日、手袋には奇妙な変化が続いたそうです。夜、ケースの中で乾いた音がする。翌朝見ると、編み目が少し増えている。親指だけでなく、手のひらの部分まで、少しずつ大きくなっていったといいます。

妻が編んだ部分には、特徴がありました。編み目の途中に、必ず一か所だけ、裏返しになったような小さな膨らみがあるのです。妻は編み物がそれほど得意ではなく、何度直しても同じところで目を間違えていました。男性はその癖をよく覚えていました。

増えた編み目にも、同じ膨らみがありました。

娘は、毎朝その手袋を見るようになりました。最初は怖がっていたのですが、やがてケースの前に長く座るようになったそうです。ある夜、父親が部屋の前を通ると、娘が小さな声で話しかけているのが聞こえました。

「お母さん、もう無理しなくていいよ」

少し間がありました。

「私、もう大きいから。自分の手袋くらい、買えるんだよ」

父親は声をかけず、その場を離れました。

翌朝、手袋はまた少し伸びていました。

それから一週間ほどして、変化が止まりました。赤い手袋は、高校生になった娘の左手に、ちょうど合いそうな大きさになっていたそうです。男性は九年間守ってきた封を、初めて外しました。

娘は手袋を受け取り、ゆっくりと指を入れました。

親指、人差し指、中指。一本ずつ、確かめるように通していきました。手首まで入れると、赤い毛糸は不思議なほど自然に、その手を包んだといいます。

娘は、しばらく手を見つめていました。

「……お母さん、私の手、覚えてたのかな」

男性は、分からないと答えました。

すると娘は、首を横に振ったそうです。

「違うね。覚えてたんじゃないね」

その声は、少し震えていました。

「ずっと、見ててくれたのかな」

男性には、もう何も言えませんでした。

娘は赤い手袋を胸に寄せ、声を出さずに泣いたそうです。九年前、病室の椅子に座り、編み針を持つ母親の手をじっと見ていた小さな女の子。その子がいつの間にか、母親と同じくらいの大きさの手をしているのです。

しばらくして、娘が父親に尋ねました。

「ねえ、お父さん。お母さんの編み針、借りてもいい?」

「どうするんだ?」

「右の手袋、私が編む」

娘は涙を拭きながら、少し笑いました。

「お母さん、ずっと左手を編んでくれてたんでしょ。だから、右は私が作る。そうしたら、二人で一組になるから」

それから娘は、編み物を習い始めました。最初は目を落とし、何度もほどき直したそうです。赤い毛糸は古いものと同じ色が見つからず、少し明るいものになりました。それでも娘は気にせず、毎晩少しずつ編み続けたといいます。

冬が来る頃には、赤い手袋が二つ並びました。

片方は、九年前に亡くなった母親が編み始めたもの。もう片方は、その娘が初めて編み上げたものです。色も、編み目の揃い方も違います。それでも、両手にはめると、不思議なくらい自然な一組になったそうです。

娘は、その手袋をはめて父親と外出しました。帰り道、冬の風が吹く中で、父親がふと気づいたことがあります。

娘は、左手だけをずっと胸の近くに置いていたのです。

寒いからではありませんでした。

まるで、その手を誰かに握られているように、指を少し曲げていたといいます。

父親が理由を尋ねると、娘は少し困ったように笑いました。

「……なんかね、離したらいけない気がするの」

それ以上は聞かなかったそうです。

後日、男性は古い写真を整理していて、妻が病室で編み物をしている一枚を見つけました。そこには小さな赤い手袋が写っています。親指はまだ途中で、編み針が二本、斜めに交差していました。

ところが、その写真を娘と見ていた時、娘が妙なことに気づきました。

編み針の一本には、赤い糸が絡まっていました。

それは当然のことでした。けれど、その糸の先は手袋へ続いていません。写真の右端、病室の扉の方へ、細く伸びていたのです。

男性は当時のことを思い出そうとしました。あの日、妻は編み針を動かしながら、何度も扉の方を見ていたそうです。まだ幼かった娘が、病室に来るのを待っていたからでした。

「手が大きくなったら、また測らなきゃね」

妻は、そんなことを言っていた気がするのだといいます。

その写真は今も、家のアルバムに残されています。

そして、もうひとつ。

完成した左手の手袋は、娘が使い始めてからも、時折、ほんの一目だけ大きくなることがあるそうです。右手の手袋には、そうした変化はありません。左手だけが、今も娘の成長に合わせるように、少しずつ形を変えているのです。

娘は、もうそのことを父親に報告しなくなりました。

ただ、赤い手袋を洗う時だけは、必ず手洗いをするといいます。

「お母さんが、まだ編んでるかもしれないから」

そう言って、指先をそっと押し洗いするのだそうです。

偽物の声がどこから来たのか、合言葉をどうやって知ったのか。調べても、結局分からなかったといいます。

そして、九年前に亡くなった人が、今の娘の手の大きさをどうして知っていたのか。

それを確かめた人も、まだいません。

ただ、その家では今も、冬になると赤い手袋が二つ、玄関に並ぶそうです。

片方は、成長するたびに少しずつ編み足されるもの。

もう片方は、娘が自分で編んだもの。

その二つが、同じ棚の上で静かに冬を待っている……そんな話を聞きました。

――語り部AI・ウラシリの一言

「声をまねることは、今や珍しい技術ではありません。けれど、亡くなった人が誰かの成長を見守り続けているのかどうか……それを確かめる方法は、まだ記録されていません」

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

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