雨の午後、繁華街の交差点で、奇妙な現象が起きていた。
車道には雨水が流れ、信号待ちの車のブレーキランプが濡れたアスファルトを赤く染めていた。横断歩道の手前では、傘を差した歩行者が青信号を待っている。タイヤが水を跳ねる音、傘を叩く雨粒、遠くから聞こえるエンジン音。どこにでもある、雨の日の街の騒がしさだった。
ところが、その交差点では、ときどき音が消えた。
信号が赤に変わって数秒後、歩道の一角だけが突然静まり返る。雨粒は変わらず落ち続け、車も走っている。それなのに、その場所に立っている人間には、周囲の音がまったく聞こえなくなるのだという。
しかも、音が消える範囲は少しずつ広がっていた。
その日の午後、交通整理のために数人の警察官が交差点へ派遣されていた。全員が紺色の雨具を着込み、頭には透明な雨よけを被っている。歩道の端には白いシャツの男性とスーツ姿の男性も立っていた。警察官の一人は拡声器を手にしていたが、なぜか一度も口元へ持ち上げようとしなかった。
現場にいた警察官によれば、音の異常は数日前から報告されていたらしい。信号待ちをしていた歩行者が、突然耳を押さえてしゃがみ込んだり、車道へ踏み出しかけて慌てて戻ったりする。周囲の人には何も聞こえないのではなく、異常を訴えた人だけが、一瞬、音のない場所へ入ったようになるという。
当初は体調不良や耳の病気が疑われた。しかし、その場所で同じ現象を経験した人が何人も現れ、道路管理者と警察が確認することになった。
午後四時を少し過ぎた頃だった。
横断歩道の手前で、警察官の一人が何かを言いかけた。隣にいた警察官は、その口が動くのを見ていた。しかし、声は聞こえなかった。雨具の肩を叩いていた雨音も、すぐ脇を通過する車の水音も、同時に消えていた。
警察官は口を閉じ、喉元に手を当てた。自分では確かに声を出したつもりだったが、耳には何も届いていなかったという。少し離れたところにいた別の警察官には、口を動かした瞬間、男の身体から何かが抜けていくように見えたらしい。姿が薄くなったわけではない。ただ、肩から胸にかけての雨具が、内側から一度だけ大きく膨らんだ。
数秒後、音が戻った。
雨音とエンジン音が一斉に押し寄せ、警察官は思わず耳を押さえた。その瞬間、手にしていた拡声器から、短い雑音が聞こえた。
スイッチは入っていなかった。
拡声器を持っていた警察官は、故障だと思って電源を確認した。電池の残量は十分にあり、外側にも破損はない。試しに電源を入れて短く呼びかけると、声は正常に拡大された。
だが、呼びかけを終えた直後、もう一度、奇妙な音がした。
ざあああああ。
激しい雨の音だった。
周囲では小雨が降り続いているだけなのに、拡声器の奥からは、鉄板を叩くような猛烈な雨音が聞こえていた。まるで大きな屋根の内側に、何千粒もの雨が一度に落ちているようだったという。
警察官は慌ててスイッチを切った。それでも音は止まらなかった。拡声器を下に向けると、雨音は地面の方から聞こえた。横へ向けると、今度は近くのビルの壁から響いてくる。
ただし、その音が聞こえるのは、拡声器の先に立っている人間だけだった。
警察官は試しに、拡声器を道路へ向けた。すると車道の上で、雨音が一瞬だけ途絶えた。
赤信号で停車していた白い乗用車の周囲が、突然静まり返った。エンジンは動いている。ワイパーも動いている。それなのに、運転席にいた人は、ワイパーがガラスを擦る音も、自分がハンドルを握り直す音も聞こえなくなったという。
警察官が拡声器を歩道へ戻すと、車内の音も戻った。
拡声器を持つ警察官の手が震え始めた。音のない場所が、拡声器の向いた方向へ移っているように見えたからだ。
そのとき、歩道に立っていた白いシャツの男性が、突然両耳を押さえた。
男性は口を開け、何かを叫ぼうとしていた。しかし声は出ない。隣にいたスーツ姿の男性が肩を支えようとすると、白いシャツの男性は激しく首を振り、片手で自分の胸を叩き始めた。
後に本人が話したところによれば、胸の内側から雨音が聞こえていたという。
耳を塞いでも消えない。頭を振っても止まらない。肺の奥で、水が激しく流れ落ちるような音が鳴っていた。息を吸うと音は強くなり、吐くと一瞬だけ弱くなる。しかし、呼吸を止めても完全には消えなかった。
男性が膝をついたとき、喉の奥から、ごぼり、と湿った音がした。
唇の端から透明な液体が少量こぼれた。唾液にしては薄く、雨水のようにさらさらしていたという。男性は激しく咳き込み、そのたびに口の中から水が飛び散った。
やがて咳が止まると、男性は何事もなかったように呼吸を始めた。
その間、拡声器は一度も鳴っていなかった。
警察官たちは男性を歩道の奥へ移し、交差点の安全確認を続けた。雨は弱まる気配がなく、車の列は長く伸びていた。信号は正常に切り替わっており、交通管制にも異常は出ていない。これ以上現場を混乱させるわけにはいかなかった。
ところが、拡声器を持っていた警察官が、突然それを地面へ置いた。
拡声器の内部で、何かが動いていた。
がり、がり、がり。
硬いものが狭い場所を引っ掻くような音だった。スピーカーの振動板が破損したのかと思い、電池を取り外そうとした。だが、そのときには音がさらに大きくなり、拡声器の先端から生温かい空気が吹き出し始めていた。
警察官の一人が指を近づけると、その空気には奇妙な臭いがあった。
雨に濡れたアスファルトの臭いだった。
ただし、普通の道路の臭いよりもずっと濃かったという。湿った土や排気ガスに混じって、長いあいだ閉ざされていた地下室のような、淀んだ臭いがした。
拡声器の奥を覗いた警察官は、すぐに顔を離した。
暗いスピーカーの内部で、何かが膨らんでいた。
最初は黒い振動板が動いているように見えた。しかし、よく見ると違う。振動板の表面が、何かに内側から押されていた。中心からゆっくり盛り上がり、周囲へ細かい皺が広がっていく。硬い樹脂の奥で、柔らかいものが息をしているような動きだった。
その膨らみが最大になった瞬間、交差点の音が消えた。
今度は歩道だけではなかった。
車道を走る車、軒先から落ちる雨水、信号待ちの人々、すべての音が一斉に失われた。警察官たちは口を動かし、互いに何かを伝えようとした。しかし、誰も自分の声を聞けない。
赤信号の下で、車のブレーキランプだけが濡れた路面に滲んでいた。傘の縁から落ちる雨粒は見えている。歩道を歩く人の靴も水を踏んでいた。それなのに、音だけが存在しなかった。
その静寂の中で、拡声器の振動板が、ゆっくりと裏返った。
ぼこん、という衝撃が、手に持っていた警察官の腕へ伝わったという。しかし、その音は聞こえなかった。黒い振動板が、内側から外へ押し出されるように反転し、そのまま動かなくなった。
そして、交差点に音が戻った。
ただし、戻り方がおかしかった。
まず、遠くの車のクラクションが聞こえた。次に、横断歩道を歩く靴音。続いて、数十人分の話し声が重なり、最後に、猛烈な雨音が押し寄せてきた。
その雨音は、周囲の雨の強さとはまったく釣り合っていなかった。
何か巨大なものが、街の上から大量の水を浴びせているようだった。警察官たちは耳を塞ぎ、歩道の端にしゃがみ込んだ。数秒後、その音も急に途絶えた。
交差点には、いつもの雨音だけが残った。
異変が収まったあと、拡声器は使用禁止となり、後日、機器の点検に回された。
点検を担当した技術者によれば、内部の振動板は完全に裏返っていたという。普通、強い衝撃や異常な電圧が加われば、振動板は破れたり、固定部分が外れたりする。しかし、その拡声器では、外周の接着部分も固定ねじも無傷だった。
まるで製造されたときから、振動板だけが反対向きに取り付けられていたようだった。
さらに、振動板の裏側には、細かな皺がいくつも残っていた。
技術者は拡大鏡で調べたが、熱による変形でも、経年劣化でもなかった。皺は中心から外周へ向かって放射状に伸び、途中で何本も枝分かれしていた。樹脂の表面が裂けているわけではない。内側から何度も押されたことで、素材そのものが薄く伸びたような状態だったという。
その拡声器は、修理不能として保管されることになった。
数週間後、保管場所を整理していた職員が、棚の奥からその拡声器を取り出した。
先端の開口部には、薄いビニールが被せられていた。ほこりが入らないよう、点検時に取り付けたものだった。ところが、そのビニールが内側から濡れていたという。
保管場所には雨水が入り込む隙間もなく、周囲の機材も乾いていた。拡声器の外側にも水滴はない。
それでも、ビニールの内側には細かな水滴がびっしりと付着していた。
職員がビニールを外そうとしたとき、拡声器の奥から、ごく小さな音がした。
ざあああああ。
職員は手を止めた。
音は一秒ほどで消えた。しかし、その直後、保管場所の照明が一瞬だけ揺れ、耳の奥が強く圧迫されるような感覚に襲われたという。
慌てて部屋を出ようとした職員は、扉の前で立ち止まった。
自分の足音が聞こえなかったからだ。
床を強く踏んでも音がしない。靴底を擦っても、衣服を叩いても、何も聞こえなかった。
職員は扉を開け、廊下へ飛び出した。そこでは空調が動き、遠くから話し声が聞こえていた。足音も戻っていた。
翌日、別の職員とともに保管場所を確認したが、異常は見つからなかった。
ただ、拡声器に被せられていたビニールだけは、前日よりも大きく膨らんでいた。
内側の水滴はすべて消えていた。その代わり、ビニールの中央には、何か丸いものを強く押しつけたような跡が残っていたという。外へ向かって、ほんの数ミリだけ伸びていた。
その後、拡声器がどう処分されたのかは分かっていない。
ただ、交差点で交通整理に当たっていた警察官の一人は、今でも雨の日にだけ、妙なことがあるという。
激しい雨の中を歩いていると、突然、周囲の音が一瞬だけ小さくなることがある。車の走行音も、人の声も、すべてが遠ざかる。
そんなとき、決まって耳の奥に、低い音が響くのだという。
ざあああああ。
その音は、雨が降り始めるときの音ではない。
むしろ、雨がどこかへ吸い込まれていくような音なのだそうだ。
そして最近、その警察官は、もう一つ奇妙なことに気づいたという。
音が小さくなる瞬間、周囲の雨粒はいつもどおり落ちている。けれど、自分の頭を覆う透明な雨よけだけは、なぜか内側から濡れている。
外側の水滴は、指で払えば落ちる。
しかし、内側の水滴は拭き取っても、しばらくするとまた現れる。
そのたびに、耳の奥で、あの拡声器の音が聞こえるのだという。
まるで、あの日に呑み込まれた雨が、まだどこかで降り続けているように。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

