取り壊しを待つ古い家の脇に、大きな木が一本残っていた。
枝は屋根や窓へ覆いかぶさり、家の側面には枯れた蔓が絡んでいる。灰色の金属面の前には古い室外機が並び、地面は落ち葉と折れた枝で埋まっていた。
問題は、木の幹と家のあいだだった。
人ひとりなら通れる。だが肩幅のある者なら、身体を少し横へ向けたくなる程度には狭い。家の裏側へ回るにはそこを抜けるのが一番早かったため、取り壊し前の片づけに入った作業員たちは、まず伸びた枝を落として通路を確保することにした。
午前中、一人の作業員が剪定した枝を抱えて、その隙間を抜けようとした。
幹の横まで来たところで、急に立ち止まった。
「ちょっと待って。狭い」
後ろにいた作業員は、何を言っているのか分からなかった。さっき同じ場所を二人とも通っている。木が倒れたわけでも、壁が崩れたわけでもない。
本人も妙な顔をしながら、身体を横向きにした。
その瞬間、着ていた作業着が左右から同時に押された。
布が木や壁に擦れたのではない。肩から脇腹までの部分だけが、見えない板で挟まれたように身体へ密着した。作業員は慌てて一歩戻り、隙間から出た。
服の両脇には、縦に長い跡が残っていた。右側には灰色の汚れ。左側には木の皮のような茶色い跡。
ところが本人が立っていた場所を見ると、身体の右側は壁から十センチ以上離れていた。左肩も幹には触れていなかった。
「なんか、両方から押された」
そう言ったものの、怪我はなかった。疲れているのだろうという話になり、昼までは家の正面側の作業だけを続けた。
午後、裏へ置いた道具を取りに行く必要ができた。
午前中の作業員が、自分で行くと言った。気味は悪かったが、明るい時間だったし、隙間の枝もかなり減っている。もう一人が少し後ろからついていった。
木の手前までは普通だった。先に歩いていた作業員が幹の横へ入る。左肩を少し前へ出し、いつものように身体を斜めにした。
二歩目で止まった。
今度は、声を出さなかった。
後ろにいた作業員は、その背中が妙に見えたという。
細くなっていた。
服が身体に張りついたのではない。肩の幅そのものが縮んでいた。
左右から強く押し込まれ、胸も背中も厚みを失っていく。作業着に皺が寄るより先に、その中にある身体の形が変わっていった。
作業員は両腕を広げた。右手が家の壁に触れる。左手が木の幹を掴む。
それでも壁も木も動かなかった。押しているものが、そこには見えなかった。
次の瞬間、作業員の身体が横へ折れた。
腰から曲がったのではない。人間の形を保ったまま、幅だけが急に薄くなった。
後ろにいた作業員が腕を掴もうとした時には、手首しか見えなくなっていた。その手首も、紙を隙間へ差し込むように、家と木のあいだへ吸い込まれた。
骨が折れる音も、服が裂ける音もなかった。
黄色いヘルメットだけが、その場に落ちた。
作業員はすぐ隙間へ飛び込んだ。
家の裏まで走ったが、誰もいない。奥は高い塀で行き止まりだった。塀を越えた形跡もなく、家の中へ入れる扉もない。
ほんの数秒だった。人ひとりが消えられる場所などなかった。
他の作業員も集まり、敷地中を探した。床下も家の内部も確認した。それでも見つからない。
誰かが、本人の携帯電話へ電話をかけた。
呼び出し音がした。
全員が黙った。
音は木の向こうでも、家の中でもなかった。作業員が消えた場所から聞こえていた。
木の幹と灰色の壁、そのあいだの空間からだった。
誰もいない、幅数十センチの隙間で、携帯電話だけが鳴っている。
近づくと音の位置がおかしかった。壁へ耳を寄せると壁の中から聞こえる。木へ近づくと、今度は幹の奥から鳴っているように聞こえる。
もう一度かけると、呼び出し音はさらに高い位置へ移っていた。
最初は胸の高さだった。次は頭の高さ。三度目には、屋根の近くから聞こえた。
そこで誰も電話をかけなくなった。
警察も来た。
周辺の道路や隣家、防犯カメラまで確認されたが、作業員が敷地から出た映像はなかった。家の中にも人の入った痕跡はなく、木の周囲から血液や衣服が見つかることもなかった。
ただ、落ちていたヘルメットだけは妙だった。
拾った時には普通だったはずなのに、夕方には少し潰れていた。誰かが踏んだと思われた。
翌朝には、さらに薄くなっていた。
硬い樹脂製のヘルメットが割れもせず、ゆっくり押し潰されていた。内部の発泡材も、顎紐も、全部まとめて厚さ数センチほどになっている。
その日の午後、木の根元から手袋が見つかった。昨日まで本人が右手にはめていたものだった。
それも平らだった。
指の部分まできれいに潰れていて、作業用手袋というより、手袋の形に切り抜いた布のようになっていた。
三日目には腰につけていた工具袋。四日目には鍵。五日目には携帯電話が出てきた。
どれも、作業員が消えた隙間の地面に落ちていた。
携帯電話は特に異様だった。
画面も本体も割れていない。なのに厚さだけがほとんどなくなっていた。
金属もガラスも内部の部品も、一枚の薄い板になったように潰れている。それでも側面のボタンやカメラの形は残っていた。
誰も触ろうとしなかった。
警察の人間が袋へ入れようとした時、薄い携帯電話が一度だけ震えたからだ。
電源は入らなかった。画面も点かなかった。ただ、机の上で短く振動した。
その場にいた一人が、あとになって気づいた。その時刻は、作業員が消えた時刻とほぼ同じだった。
作業は長く中断された。
結局、その家は予定より遅れて取り壊された。問題の木も伐採されたが、幹の内部にも根元にも異常は見つからなかった。
家の壁を壊しても何も出なかった。
作業員の身体は、最後まで見つからなかった。
建物がなくなり、木も抜かれ、土地が完全な更地になったあと、最後の片づけが行われた。
その時、新しく入った作業員が空のペットボトルを落とした。
風に転がされたボトルは土の上を数メートル進み、途中で突然止まった。
誰も踏んでいない。何にもぶつかっていない。
それなのに、音を立てて潰れた。
ぱん、と一度だけ鳴り、透明なボトルは地面へ張りつくほど平らになった。
作業員たちは誰も近づかなかった。
そこが以前どこだったのかを知っている者が一人だけいた。
家の壁があった場所でもない。木が立っていた場所でもない。
その二つの、ちょうどあいだだった。
現在、その土地には新しい建物が建っている。
ただ、敷地の片側にだけ、妙に細長い空間が残されている。建物と境界のあいだを抜ける、誰も使わない隙間だ。
設計上は設備点検用のスペースになっているらしい。
だが管理をしている人間は、そこへ入らない。物を置かない。落としたものも拾わない。
木も家も、もうない。
それでも、あいだだけは残っている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

