その高架下の歩道には、自転車置き場の小さな電光表示があった。
夜になると、頭上の鋼板には車のブレーキランプが赤く滲み、右手の壁だけが、緑の「空」という文字でぼんやり照らされる。自転車はいつもぎっしり詰まっていたのに、その表示だけは決まって「空」のままだった。
最初におかしいと気づいたのは、近くの事務所で夜勤をしていた人だった。帰り道、表示の下を通るたび、耳の奥が一瞬だけ詰まる。車の音も、人の話し声も、高架の下で全部反響しているはずなのに、その緑の光の真下だけ、音が抜け落ちるのだという。
ある晩、前を歩いていた会社員の吐いた息が、季節外れに白く見えた。冷え込む夜ではなかった。息は横へ流れず、まっすぐ上へ立ちのぼり、頭上の黒い箱型の梁の隙間へ吸い込まれた。その直後、電光表示が一度だけ点滅した。
空。
人が一人、通っただけだった。
翌朝、歩道の手すりに、細い緑の粉がついていた。蛍光塗料のようにも見えたが、指で払うと冷たかった。粉は手すりの上に一文字だけ残していた。
空。
それから表示の下を通る人たちは、みな少しずつ変わった。急に黙る。スマートフォンを耳に当てたまま、相手の声が聞こえないという顔をする。連れと並んで歩いていたはずなのに、緑の光を抜けたあとで、半歩ぶんだけ間が開く。
消えるのではない。ただ、何かが一つ、そこへ置いていかれる。
夜勤の人は怖くなり、反対側の歩道を使うようにした。けれど信号待ちでふと見上げると、高架の裏に赤い反射が三本、縦に垂れていた。車の列は動いていない。赤い光の元になるテールランプもなかった。それでも反射だけが、濡れた指で引いたように、少しずつ緑の表示へ近づいていた。
その日、自転車置き場の管理会社へ問い合わせると、機械の点検記録には異常がなかったという。ただ、画面上ではずっと一台ぶんだけ空きがあるらしかった。
場所の欄には、自転車番号ではなく、短くこう出ていた。
歩道下。
その週の金曜、夜勤の人は、同僚と二人で高架下を通った。同僚は気にせず「空いてるじゃん」と笑って、緑の表示の真下へ入った。自転車を停める場所など、どこにもないのに。
その瞬間、同僚の靴音だけが消えた。
歩いている。隣にいる。肩も鞄も見えている。なのに、靴底がタイルを踏む音だけがない。さらに、頭上の赤い反射が一本増えた。四本目は細く、まだ乾いていない傷のように震えていた。
同僚は表示の下を抜けると、急に立ち止まった。顔色が悪かった。胸のあたりを押さえ、「今、何か空いた」とだけ言った。
翌日から、その同僚は会社に来ていない。連絡は取れる。メッセージも返ってくる。けれど電話だけはつながらない。呼び出し音のあと、向こうで車の走る音がして、高架下のような反響がして、それきり切れるのだという。
今もその場所では、夜になると緑の「空」が点く。
自転車置き場が満車のときほど、文字は明るい。表示の下の歩道には、ときどき乾いた足跡が一組だけ残る。雨上がりでもないのに、その足跡の縁には緑の粉がついていて、爪先は必ず、頭上の黒い梁へ向いている。
そこに空きがあるのではない。
あの表示は、通った人間の中に、空いた場所を見つけている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

