首の向く底

写真怪談

九月のよく晴れた休日だった。市街地にある大きな公園の池には、白いスワンボートが十数艇出ていた。岸の木々にはまだ濃い緑が残り、水面には青空が薄く映っている。貸しボートの係員にとっては、秋の繁忙期によくある穏やかな午後だった。

異変を訴えたのは、昼過ぎに戻ってきた二人連れだった。池の中央付近で、急にハンドルが利かなくなったらしい。壊れたのかと思ったが、しばらくすると何事もなかったように元へ戻った。ペダルには異常がなく、ボートも普通に進んでいたため、係員は水草でも舵に絡んだのだろうと考えた。

同じ日の午後、別の一艇からも似た話が出た。こちらは先ほどとは反対側から池の中央へ入ったところで、舳先が勝手に左へ向いたという。

最初の艇は右へ向いていた。

二つのボートは、結果として同じ一点を向いていたことになる。

その場所には何もなかった。ブイも杭もなく、水鳥が集まっているわけでもない。岸から見れば、周囲と変わらない水面だった。貸しボートの航路としても普通に通るところで、それまで事故の報告は一度もなかった。

翌日、係員の一人が一艇を出して確かめた。客の少ない午前中を選び、問題があった辺りまでゆっくり漕いでいく。風は弱く、水面には細かな波しか立っていなかった。

池の中央へ差しかかったところで、ハンドルが急に軽くなった。

壊れた感触ではなかったという。手応えそのものが消え、握っている輪だけが空回りしているようになった。次の瞬間、ボートの船体がゆっくり回り始めた。ペダルを止めても回転は続き、白鳥の首が、池のある一点へ向いたところでぴたりと止まった。

四、五秒ほどだった。

それから舵の感触が戻り、ボートは普通に動いた。水面を覗いても、水草もロープも見えない。長い棒を沈めても何にも触れなかったため、その日は営業を続けた。

妙だったのは、同じことが起きる位置が一定ではなかったことだ。東側から近づいた艇は中央より手前で回り、西側から来た艇はさらに奥で向きを変えた。それでも最後に白鳥の首が向く先だけは、ほとんど変わらなかった。

数日後の休日、その現象を岸から大勢が見ることになった。

午後二時を少し過ぎた頃、池には十艇以上のスワンボートが散らばっていた。家族連れや二人組がそれぞれ好きな方向へ漕いでおり、岸近くを進む艇もあれば、池の奥まで出ている艇もあった。

そのうち一艇が止まった。

続いて、その横を走っていた一艇が回った。さらに奥の二艇、岸寄りの三艇と、離れた場所にいるボートが次々に向きを変えていった。風に流されたような動きではない。それぞれ違う方向を向いていた船体が、白鳥の頭を先にして、ゆっくり同じ一点へ揃っていった。

最後には、池に浮かんでいた白い首のほとんどが、一か所を見ていた。

乗っていた人たちはペダルを踏んでいた。ハンドルを切ろうとしている者もいた。しかし数秒のあいだ、一艇も前へ進まなかったという。池の上に散らばった十数羽が、ただ首を伸ばし、何もない水面を囲んでいるように見えた。

やがて一艇が動き、それを合図にしたように全部のボートがばらばらの方向へ戻った。怪我人はいなかったが、その日はそこで営業を中止した。

翌朝、すべての艇が陸へ上げられた。舵、ペダル、軸、水草の巻き込みまで調べたものの、故障は見つからない。ただ、整備を担当していた作業員が、船首近くに取り付けられた金属製の牽引用リングを見て手を止めた。

リングの内側だけ、塗装が削れていた。

半月形の細い傷だった。何か硬いものを掛け、強く引いた時につくような擦れ方だったが、営業中に牽引ロープを結ぶことはない。その傷が、一艇だけではなく、異変が起きた艇のほぼすべてにあった。

古い傷なら不思議ではない。しかし削れた金属面はまだ新しく光っていた。指で触れると、塗膜の細かな粉が縁に残っていたという。

公園側はその年の営業を早めに終え、予定していた冬季清掃を前倒しした。池の水位を下げ、底に溜まった泥や枝を取り除く作業が始まった。

ボートが向いていた地点には、泥に埋もれた鉄の輪があった。

直径は二十センチほど。古い係留設備のようにも見えたが、公園の担当者でその存在を知る者はいなかった。現在の桟橋からも離れすぎており、そこへ船を固定する理由もない。

泥を落とすと、さらに妙なことが分かった。

輪の外側は赤黒く錆びていた。それなのに内側の一部分だけが、何度も何かを擦りつけたように銀色へ磨かれていた。その溝には、白い粉が詰まっていた。

作業員の一人が、陸へ上げたスワンボートの牽引用リングを思い出した。削れた場所の幅が、ほとんど同じだった。

池底の輪は、周囲のコンクリートごと切り取られた。下に鎖やワイヤーが埋まっている可能性も調べたが、何も続いていなかった。ただ鉄の輪だけが、泥の中に残されていた。

それがいつ設置されたものなのかも、結局分からなかった。

翌年、新しい牽引用リングに交換したスワンボートで営業が再開された。池の中央で舵が利かなくなることはなくなり、白鳥の首が一斉に同じ方向を向くことも、それ以降は起きていない。

取り外した古いリング類は処分されたが、一個だけ、原因調査のため整備倉庫に残されたそうだ。

船首に付いていた、小さな銀色の輪である。

傷は今も消えていない。

何かに引かれた半月形の部分だけが錆びず、周囲より明るく光っている。作業員は時々それを見ることがあるが、磨いたことは一度もないという。

あの日、十数艇のスワンボートを同じ一点へ向けたものが、水の中にあったのか。

それとも、水の底の輪は、ただ引かれる側だったのか。

そこだけは、誰も確かめていない。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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