建物の裏手には、歩行者通路から一段高くなった設備帯がある。黒い横桟の目隠しが長く続き、その内側には銀色のダクトや室外機、配管が詰め込まれていた。下の通路には桃色の庇が張り出し、昼間は買い物客や近くの住人が絶えず行き来する。周囲を集合住宅に囲まれているせいか、設備の音も風の音も、普段は街のざわめきに埋もれていた。
その建物で空調設備の定期点検を担当していた作業員から聞いた話だ。
異常が出たのは、秋口の午後だった。設備帯の奥にある排気系統を順番に停止させ、風量を測っていたところ、黒い横桟の前に垂らしていた薄い測定紙が、突然ぴんと内側へ伸びた。
送風機は止まっていた。
作業員が紙を離すと、横桟に吸いつくほどの勢いで奥へ引かれた。七秒ほど続いて力が抜け、四、五秒するとまた吸う。それを何度も繰り返したという。
屋外の風なら方向が変わる。だが、その日は植木の葉もほとんど動いていなかった。横桟の前だけで、一定の間隔を置いて空気が消えていた。
電気系統の問題を疑い、設備帯の主電源まで落とした。室外機の振動が止まり、銀色のダクトから聞こえていた低い唸りも消えた。建物の裏側が、普段とは違うほど静かになった。
それでも紙は、また奥へ引かれた。
そのとき、一人が冗談半分に秒数を数えた。吸い込みは七秒前後。止まっている時間が四秒ほど。そしてまた七秒。
呼吸に似ている、と誰かが言ったが、それ以上その言葉を使う者はいなかった。
翌日、設備業者を加えて調べ直した。空気が引かれているのは、太い銀色のダクトの一本だった。図面では、壁を抜けてから二・八メートルほど先で別系統へ合流する。途中には逆流を防ぐダンパーもあり、ファンを停止していれば外から大量の空気を吸い込む構造ではない。
ところが点検口を開けると、内側からはっきり空気が引かれていた。煙を少量流すと、白い煙は渦にもならず、細い一本の筋になって暗い奥へ消えた。
ダンパーを確認するため、細いグラスファイバー製の点検棒を入れた。三メートル。五メートル。そこで本来なら奥の曲がりに当たるはずだった。
止まらなかった。
十メートルを越えても入った。
作業員は建物の図面を床に広げ、壁の向こうを指で測った。その方向へ十メートル進めば、ダクトはとうに建物の外へ出ている。下には写真にあるような煉瓦敷きの歩行者通路があり、その上には桃色の庇が張り出しているだけだった。
二十メートル巻きの点検棒が、最後まで入った。
そこで作業員は手を止めた。奥で何かに当たったわけではない。単に、もう棒が残っていなかったからだ。
ゆっくり巻き戻すと、先端近くに細かな粉が付着していた。赤茶色の砂のようなものと、鮮やかな桃色の短い繊維だった。
下の通路を確認すると、舗装は赤茶色の煉瓦だった。桃色の繊維についても見覚えがあった。設備帯の真下にある店の庇が、ほぼ同じ色をしていた。
庇には穴も裂け目もなかった。裏側にも配管は通っていない。そもそも、設備帯からは高さが数メートル違う。
念のため点検棒を新品に替え、もう一度差し込んだ。今度は十二メートルほど入れたところで巻き戻した。赤茶色の粉が付いていた。
さらに翌日には、八メートルで付いた。
奥が近づいているようだった。
管理側は使用していない枝管からの異常な吸気と判断し、その部分を切り離すことにした。壁から約一メートルの位置でダクトを切断し、建物側を金属板で塞ぐ。切り取った銀色の筒は原因調査のため、その場の床へ横に置かれた。
建物側を塞いだ時点で、横桟の前の吸い込みは止まった。
作業員たちはようやく安心し、工具を片づけ始めた。その途中、一人が床に置いた筒のそばを通り、足を止めた。
筒の開口部に残っていたビニール片が、内側へ引かれていた。
切り離された、一メートルほどのただの筒だった。両端は開いている。一方から空気を吸えば、反対側から入ってくるはずである。
反対側へ手を当てた。
そちらも吸っていた。
二つの開口部から同時に空気が入り、筒の中央へ向かって消えていたという。
誰も触らなくなった。
しばらくすると吸い込みは止まった。筒を持ち上げても特に重くはない。内側を照らせば、向こう側まで普通に見通せる。長さも直径も、切断した時と変わらなかった。
ただ中央部分の内壁に、桃色の繊維が三本貼りついていた。
その筒は廃棄されず、透明な収納箱に入れて設備会社の倉庫へ運ばれた。両端をビニールで覆い、箱の蓋にもテープを回した。何か変化があった場合に確認できるよう、開封日まで記録されたという。
現場では、それ以降おかしな吸気は起こらなかった。
一か月ほど経って、建物から設備会社へ別件の連絡が入った。下の店の庇に、小さな傷みが見つかったのだという。
桃色の布地の中央付近が、指一本ほどの幅で薄くなっていた。刃物で切った跡ではなく、繊維だけが少しずつ抜けたようになっている。風で擦れる場所でもなく、金具にも異常はなかった。
作業員は倉庫へ戻り、例の収納箱を開けた。
切り取った筒の中には、桃色の繊維が増えていた。
最初は三本だった。それが内壁の中央に薄く絡まり、綿埃のような塊になっていた。赤茶色の細かな砂も底に溜まっていたが、箱の中へ砂を持ち込んだ者はいない。
それ以上の調査は行われなかったという。筒は再び密封され、現場の庇は老朽化という扱いで交換された。
新しい庇は桃色ではなく、灰色になった。
交換から数日後、倉庫の担当者が収納箱の前を通ったとき、透明な蓋の内側に一本の糸が付いているのを見つけた。
灰色だった。
箱の封は切れていなかった。
今もその筒は残っている。設備会社では誰も定期的に確認しなくなったそうだ。ただ、あの建物へ点検に行く作業員だけは、黒い横桟の前を通るとき、足を止めない。
下の煉瓦敷きも見ない。
風のない日に、自分の作業着の裾が、設備のほうへわずかに持ち上がっていても。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


