その男子トイレには、少し妙な貼り紙がある。個室に入って鍵を掛け、便座に座ると、扉の真正面に白い紙が貼ってある。
「終わったら
流して下さい。」
太い黒のマーカーで、それだけ書かれている。注意書きとしては珍しくない。ただ、貼る位置が低い。立っていると腰より少し上だが、座るとちょうど目の高さになる。用を足しているあいだ、嫌でもその文字と向かい合うことになる。
そのトイレは、郊外の小さな事業所にあった。建物自体は新しくないが、清掃はきちんとされていた。男子トイレには小便器が二つと個室が一つ。問題の貼り紙も、誰かがふざけて貼ったものではない。
管理担当者によれば、便器を流さずに出る人が何度かいたため、清掃担当者が書いたものだったという。紙を貼ってから、その苦情はなくなった。代わりに、別の苦情が出るようになった。
「個室に長くいる人がいる」
昼休みや夕方、使用中の表示になったまま、十分以上空かないことがあった。ノックをしても返事がない。ところが少し待ってから見ると、鍵は開いている。中には誰もいない。便器もきれいに流されている。
最初のうちは、単に使用者が出たことに気づかなかっただけだと思われていた。
ある日、残業をしていた社員がその個室を使った。夜九時を過ぎていて、同じ階にはほとんど人が残っていなかった。
便座に腰を下ろすと、例の貼り紙が目の前にある。
「終わったら
流して下さい。」
何度も見ている文面だった。スマートフォンを眺めながら用を済ませ、紙を取ろうとして顔を上げたとき、少し違和感があった。
二行目の文字が、さっきより下にあるように見えた。紙そのものがずれたのかと思った。しかし四隅のテープはそのままだった。
よく見ると、「流して下さい。」の下に、黒い点が一つ付いていた。インクが垂れたような小さな点だった。社員は気にせず紙を使い、立ち上がった。
便器の洗浄レバーへ手を伸ばしたところで、背後から水の音がした。まだレバーには触れていない。便器の中で、水だけが勝手に渦を巻いていた。
勢いは弱く、普通に流したときとは違った。水位がゆっくり下がり、排水口の奥へ吸い込まれていく。その間、タンクから給水する音はしなかった。
社員はレバーから手を離した。水面が元の高さに戻るまで待ち、今度こそ自分で流した。普通の音がした。それで終わったと思った。
扉の鍵を開けようとして、目の前の紙を見た。さっきの黒い点が、点ではなくなっていた。細い縦線になっていた。「流して下さい。」の句点から、下へ三センチほど伸びている。
インクが垂れたのなら、紙も濡れているはずだった。指で触れてみたが乾いていた。
社員はトイレを出た。翌朝、出勤してから貼り紙を確認した。縦線は消えていた。誰かが紙を交換した形跡もない。
その日の午後、別の社員が個室から出てきたあと、妙なことを言った。
「ここ、二回流さないと駄目なんですか」
一度流したあと、扉を開けようとしたら、後ろでもう一度水が流れたという。自動洗浄ではない。便器は古いレバー式だった。
管理担当者が設備業者を呼んだ。タンクと給水管、洗浄弁まで調べたが異常はなかった。構造上、レバーを動かさずに便器だけが流れることはないと言われた。
念のため、貼り紙も剥がすことになった。四隅のテープを外すと、紙の裏側に黒いものが見えた。文字だった。表から染みたものではない。
裏側にも、マーカーで文章が書かれていた。
「まだです」
三文字と二文字。それだけだった。
清掃担当者は、自分は書いていないと言った。紙は捨てられた。新しい注意書きも貼らなかった。それから数日は何も起こらなかった。
ところが一週間ほどして、夜勤の社員が個室を使った。座った瞬間、扉に白い長方形が見えたという。紙ではない。以前貼り紙があった場所だけ、木目が白っぽく抜けていた。
四角い跡の中央に、黒い文字が薄く浮いていた。
「終わったら」
そこまでは読めた。下の行はかすれていた。
社員は気味が悪くなり、すぐに立った。何もせず外へ出ようとした。鍵に手を掛けたところで、便器が流れた。背中側だった。
社員は振り向かなかった。鍵を開けようとした。開かなかった。つまみは動く。金具も外れる音がする。それでも扉が押せなかった。
その間にも、便器の水がもう一度流れた。今度は強かった。ごぼっ、と空気を飲み込むような音がして、床まで微かに振動した。
扉の白い跡を見ると、さっき読めなかった二行目が濃くなっていた。
「流して下さい。」
社員は、自分は何もしていないのだから関係ない、と考えたという。それでもレバーを押した。水が流れた。直後、鍵が開いた。
社員はそのままトイレを出た。翌朝、個室の扉を調べると、白い跡はなかった。ただ、便器の中に黒いものが沈んでいた。
拾い上げると、紙の切れ端だった。水に浸かっているのに、ふやけていなかった。
そこには太いマーカーで、
「一人」
と書かれていた。
管理担当者は、その切れ端を捨てた。その日の夕方には、また便器の中に紙があった。
今度は、
「二人」
翌日は、
「三人」
数字だけが増えていった。誰が入った人数なのか調べようとしたが、合わなかった。一日に十人以上使った日でも一つしか増えないことがあり、誰も使っていない休日の翌朝に二つ増えていたこともあった。
「七人」になったところで、個室は使用禁止になった。扉にテープを張り、鍵も外側から固定した。便器の給水も止めた。
それでも翌朝になると、便器の底には水が溜まっていた。透明な水だった。その中に紙が一枚沈んでいた。
「八人」
さらに翌日。
「九人」
十人目が出た朝には、紙がなかった。代わりに、使用禁止にしていた個室の扉が内側から鍵を掛けられていた。
管理担当者と設備業者が工具で解錠した。個室には誰もいなかった。便器も空だった。
扉の内側には、以前と同じ場所に白い紙が貼られていた。四隅を透明なテープで留め、太い黒字で、
「終わったら
流して下さい。」
そう書かれていた。紙の下端だけが、少し濡れていたという。
設備業者が剥がそうとしたが、管理担当者が止めた。それ以来、その個室は再び使われている。奇妙な水音の話も、鍵が開かないという話も出ていない。
ただし、一つだけ決まりができた。用を足したかどうかに関係なく、個室へ入って鍵を掛けた者は、出る前に必ず一度便器を流す。掃除に入っただけでも同じだ。
理由を知らない新人が「水がもったいない」と流さずに出ようとしたことが、一度だけある。扉は普通に開いた。何も起きなかった。
その日の業務終了後、清掃担当者が便器の中に紙を見つけた。
「一人」
翌朝にはなくなっていた。代わりに貼り紙の裏側へ、以前にはなかった文字が一行増えていたという。
「まだ終わっていません」
それを見てから、誰も貼り紙を剥がそうとはしていない。
そして今も、その個室に座れば、真正面にあの文字がある。
「終わったら
流して下さい。」
問題は、何をもって「終わった」と判断されているのか。それを確かめた人は、まだいない。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

