都心の大通りから一歩入っただけで、その路地だけ新築の匂いがした。
左には薄い緑の壁、右には灰色の打ちっぱなしの壁が続いている。丸い外灯が規則正しく並び、黒い舗装は雨でもないのに艶を残し、右側の白いコンクリートだけが妙に明るい。奥には赤い屋根の小さな建物が見える。なのに、歩いても歩いても、その赤い屋根との距離が変わらない。
友人は不動産会社に勤めていて、その路地の奥にできた集合住宅へ、入居希望者を案内する予定だった。相手が十分遅れているあいだ、彼は路地の入口で待っていた。昼間なのに人通りは少なく、遠くの車の音も、電線の揺れる音も、ここだけ薄い膜の外にあるみたいだった。
足を踏み入れたとき、音がしなかった。
黒い舗装の上を革靴で歩いたはずなのに、こつ、という響きは右側の白いコンクリートから返ってきた。しかも半歩だけ早い。彼がまだ足を出していない場所に、先に靴音が置かれる。
見下ろすと、右の白い面に靴底の模様が浮いていた。泥ではない。濡れ跡でもない。新しいコンクリートの表面に、乾く途中で押されたような浅い溝が、一歩ぶん先に刻まれている。彼がその横を通ると、溝はすっと薄くなり、また一歩先に現れた。
気味が悪くなって引き返そうとした。
だが、入口が遠かった。さっき曲がってきたはずの大通りが、灰色の空の下で細く閉じている。左の緑の壁には窓がいくつもあるのに、どの窓にも室内が映らない。ただ、彼の背中だけが、歩くたび一拍遅れて映っていた。
その背中は、右側を歩いていた。
彼自身は黒い舗装の中央にいる。けれど窓の中の彼は、白いコンクリートの上を、少し首を傾けて歩いている。靴音もそちらからする。右の壁に並んだ丸い外灯の一つが、点いていないのに内側から白く曇った。
曇りの中に、足跡が増えた。
彼のものではない。小さなスニーカー、幅の広い作業靴、細いヒール。どれも白いコンクリートの上に、乾ききる前に踏まれたみたいな深さで浮かんでいる。だが路地には誰もいない。奥の赤い屋根の前に、黒い人影がひとつ見えた気がしたが、まばたきすると消えた。
その瞬間、右側の砂利が鳴った。
ざり、ではない。口の中で小石を噛み合わせるような、低い音だった。白いコンクリートと黒い舗装の境目に敷かれた細い砂利が、ゆっくり動いている。風も傾きもないのに、粒が一つずつ彼の靴先へ寄ってくる。逃げようと足を上げると、黒い舗装の艶が足裏を離さなかった。
新品の道路に、踏まれていた。
彼は力任せに足を引き抜いた。靴底に黒いものが薄く張りついていた。アスファルトではない。乾いていない皮膚のかさぶたみたいに、ぬるく、伸び、すぐ固まった。はがそうとすると、靴底の溝に白い砂利がぎっしり詰まっていた。
その後、入居希望者から電話があった。路地の入口にいるが、不動産会社の人が見当たらない、と言う。
友人は路地の中で、相手に手を振った。向こうからも、赤い屋根のあたりに小さく立つ人影が見えた。だが相手は電話の中で、こう言ったそうだ。
「奥にいるの、あなたですか」
声が震えていた。
彼が振り返ると、右の白いコンクリートの上に、靴跡が二列ついていた。一列は入口から奥へ。もう一列は奥からこちらへ。どちらも彼の靴底の模様だった。ただ、奥から来るほうだけ、つま先が全部、わずかに内側を向いていた。
それから友人は、その物件を担当から外してもらった。
数日後、同僚が現地確認に行くと、路地は何も変わっていなかったという。薄い緑の壁、灰色の壁、丸い外灯、黒い舗装、白いコンクリート。けれど右側の白い面の一枚だけ、色が少し違っていた。
そこには、浅い靴跡が一つだけ残っていた。
乾いたコンクリートの表面に、革靴の溝がきれいに食い込んでいる。位置は路地の真ん中ではなく、右端。まるで、そこを歩いた誰かを、道の側に移し替えたあとみたいに。
友人はいまでも、靴を脱ぐ前に必ず靴底を見る。
黒い舗装はもう残っていない。白い砂利も落ちない。けれど雨の前だけ、右足の裏に、あの路地と同じ新築の匂いがするという。
そして玄関のたたきに、まだ誰も踏んでいないはずの靴跡が、一歩先に浮いていることがある。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


