社員証が帰りたがる夜

ウラシリ怪談

ある大手のAI研究施設で、外部の安全評価員を常駐させる制度が始まったそうです。
開発する側とは別の人間が、日常的に中へ入り、同じ資料を見て、危険だと思えば止める。そのため評価員には、社員に近い権限が与えられました。
制度の説明会では、「今後、半年から一年ほどの進み方が重要になる」という話もあったそうです。
確認手順は三段階。どれだけ急ぐ案件でも、一段ずつ終わらせる。開発そのものを止めるのではなく、あえて速度を落とす時間をつくる。そういう取り決めだったといいます。

最初に異変に気づいたのは、五十代の外部評価員でした。
机とノートパソコン、それから灰色の入館証を一枚支給されていました。社員証とほとんど同じ形ですが、所属欄だけに「外部評価」と印字されています。
勤務三日目の夜。第一段階の確認を終え、第二段階の部屋へ向かおうとした時でした。
首から下げていた入館証が、ふいに背中側へ引かれたそうです。
誰かに紐をつままれたような、ごく弱い力でした。振り返っても、廊下には誰もいません。空調の風も感じられませんでした。
ところが歩き出すと、もう一度。
今度は、はっきりと胸元から離れました。入館証だけが斜めに浮き、来た方向を指していたそうです。
その先には研究室ではなく、エレベーターがありました。一階へ降りれば、そのまま出口です。
評価員は入館証を手で押さえ、その夜は仕事を続けました。

翌朝、カードの端に小さなへこみができていました。親指で強く挟んだような、半月形の跡でした。
材質は硬く、爪を立てたくらいでは跡は残らなかったそうです。交換を申し出るほどでもないと思い、そのまま使ったといいます。
奇妙だったのは、それからでした。
三段階の確認を急いで通り抜けようとすると、入館証が重くなるのです。
第一段階では、少し胸を引かれる程度。第二段階では、紐が首に食い込む。第三段階まで一気に進もうとすると、足を止めなければならないほど下へ引かれました。
反対に、一つの確認を終えるたびに手を止め、資料を閉じ、数分置いてから次へ進むと何も起きませんでした。

誰にも話さずにいたそうです。
似た話を仕事場で口にすると、原因を探されます。磁気だ、帯電だ、素材の癖だと調べられて、たいていそこで終わります。
彼は、それで終わらせたくなかったのかもしれません。
その人には、二十代になる娘がいました。幼い頃は、仕事帰りによく駅まで迎えに来ていたそうです。
いつからか待たせることが当たり前になり、そのうち娘の方が待たなくなりました。連絡も、年に数回。最後に二人で食事をした日も、もう思い出せなかったといいます。

制度が始まって半年ほど経った夜のことです。
施設では、意図的に作業速度を落とす時間が設けられていました。評価員は、その時間にも仕事を続けようとしていました。
あと一件だけ。確認して帰ろうとしたそうです。
その時、入館証が胸元から真横に持ち上がりました。
これまでとは違いました。紐がぴんと張り、カードが出口の方角を向いています。手で戻しても、離すとまた同じ方向へ向きます。
彼はしばらく立っていたそうです。
やがてパソコンを閉じました。三段階ある確認のうち、その日は二段階目で止めました。
翌日に回したのは、そこで働き始めてから初めてだったといいます。

駅へ向かう途中、娘に短い連絡を送りました。
「まだ起きてるか」
返事はすぐに来ました。
「起きてる。珍しいね」
それだけだったそうです。
二人はその夜、駅前で遅い夕食を食べました。昔の話はほとんどしませんでした。
娘は仕事のことを話し、彼は聞いていました。
帰り際、娘が、
「帰れる日に帰ればいいんじゃない」
とだけ言ったそうです。

翌朝。入館証の半月形のへこみは、少し薄くなっていました。
それから彼は、意識して仕事を途中で止めるようになりました。娘とも、月に一度ほど会うようになったそうです。
不思議なことに、その頃からカードに引かれることもなくなりました。
ここまでなら、少し変わった思い出で終わっていたのかもしれません。

数か月後、彼はその施設での常駐期間を終えました。
入館証は失効処理をされ、ほかの返却済みカードと一緒に、施錠された保管棚へ収められました。電気的には、もう何の権限も持っていません。
その後、新しく入った評価員から、妙な話が出るようになったそうです。
開発速度を落とす時間になると、保管棚の中から、
こつ。
こつ。
と、小さな音がする。

ある夜、担当者が棚を開けました。
返却済みの入館証が、何十枚も重なっていました。そのすべての紐が、一方向へ伸びていたそうです。
棚の扉。その向こうにある廊下。さらにその先の、建物の出口へ向かって。
紐を留める金具は、どれもわずかに外側へ曲がっていました。長い時間、何かに引かれ続けたように。
そして何枚かのカードには、あの半月形のへこみがありました。
小さな親指で、
「もう帰ろう」
と押さえたような跡だったそうです。

それが誰を外へ帰そうとしているのか。
人なのか。
それとも、人が作り続けている何かなのか。
施設では今も、確かめていないそうです。
速度を落とす夜だけ、棚の中から音がする……そんな話を聞きました。

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

Anthropic CEO urges AI companies to slow model development amid fears over misuse

reuters.com
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