満員電車では、向かいに立つ人の持ち物をぼんやり眺めてしまうことがある。
あの日、私の目を引いたのは黒いリュックだった。旅行の土産を全部ぶら下げたように、小さなぬいぐるみが隙間なく揺れている。カエル、てんとう虫、赤いキノコ、白い動物、青い帽子をかぶった子……数えるのが面倒になるほど多い。
かわいい。
最初は、そう思った。
だが次の駅で電車が揺れた瞬間、違和感が走る。揺れているのはリュックだけだった。ぬいぐるみは一体も揺れない。紐だけが左右に揺れ、体は重力を無視したように正面を向き続けている。
降車駅まであと三駅。もう一度見ると、今度は全員がこちらを向いていた。
顔の向きではない。
目だ。
刺繍のはずの黒い瞳が、私だけを追っている。気づいた瞬間、赤いキノコのぬいぐるみだけが、ほんの少し笑った。口なんて縫われていないはずなのに。
慌てて窓ガラスを見る。反射した車内には乗客が映っている。だが、リュックだけが映っていない。そこだけ黒い穴のように空白になっていた。
次の駅で持ち主の女性が降りた。私はようやく息をつき、スマートフォンへ視線を落とした。そのとき、知らない番号から画像だけが送られてきた。
開くと、今しがた乗っていた車内の写真だった。撮影者は私の背後にいる。だが、その写真の私のリュックには、小さなぬいぐるみが一つ増えていた。
赤いキノコだった。私はその日、リュックなど背負っていなかった。
悪質ないたずらだと思い、画像を削除した。
家へ帰り、玄関で上着を脱いだ瞬間、肩が妙に重い。振り返ると、服のフードに小さな金具が噛んでいた。
赤いキノコのぬいぐるみだった。
見覚えのある顔。車内で笑った、あの一体だ。
気味が悪くなり、ゴミ袋へ放り込んだ。翌朝には消えていた。
安心したのも束の間、リュックに付いていた。金具は閉じられ、最初からそこにいたように。
その日から毎晩、一体ずつ増える。最初はカエル。次は白い動物。その次は青い帽子。どれも、あの電車で見た順番だった。
私は増えるたび外し、捨て、燃えるゴミの日を待った。それでも翌朝には戻っている。気づけばリュックの半分が埋まっていた。
そして昨日。
鏡越しに背中を見た私は、ようやく意味を理解した。
ぬいぐるみは増えているのではない。
少しずつ場所を空けているのだ。
中央に。
人ひとりが、ぶら下がれるだけの場所を。
今朝、電車で隣に立っていた高校生が、私のリュックを見て笑った。
「すごい。かわいいですね。何匹いるんですか?」
私は答えられなかった。
一番下で揺れる赤いキノコだけが、その子を見上げていたからだ。
次は、あの子の番なのだろう。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

