ある未明、山あいの町に「線状降水帯の直前予測」が出たそうです。
まだ雨脚は弱かったのに、今後三時間以内に、同じ場所で非常に強い雨が降り続くおそれがある、と知らされたそうです。周囲の状況が一変するおそれがあるため、夜のうちに公民館が避難所として開けられました。
最初に鍵を開けた職員は、体育室の床が乾いていることを確認したそうです。雨はまだ強くなく、窓も閉まっていました。けれど、青い避難用マットを並べ始めた時、床板の目地に沿って、細い泥の線が一本だけ走っているのを見つけたといいます。
拭くと消えました。
ただ、次のマットを置くと、また同じ場所に線が出ました。濡れているのではなく、泥が内側から滲んでくるような線だったそうです。幅は指一本ぶんほどで、まっすぐではありません。地図で見る川筋にも、雨雲の帯にも似ていない。ただ、体育室の端から端まで、何かを測るように伸びていました。
それから一時間ほど経つと、線は三本に増えていました。
避難してきた人たちは、誰もそれを踏みませんでした。見えていたのか、見えていなかったのかはわかりません。ただ、皆が自然にその線を避け、マットの配置だけが少しずつ曲がっていったそうです。体育室の中央に、誰も座らない細い通り道ができました。
さらに一時間ほどして、職員が備蓄の段ボールを開けると、中の飲料水のラベルが、すべて同じ向きに濡れていたといいます。箱は乾いている。床も乾いている。けれどラベルの一部だけがふやけて、そこに「三時間以内」という文字が、泥でなぞったように浮いていたそうです。
その頃から、避難所の中で土の匂いがし始めました。
外では雨音が強くなっていましたが、川の音はまだ遠かった。誰かが「山の水が来る前の匂いだ」と言いました。けれど、その人の足元を見ると、靴底には泥がついていませんでした。代わりに、足首の少し上、靴下の内側に、薄い茶色の線が一周していたそうです。
直前予測が出てから三時間ほど過ぎた頃、体育室の壁に水位の跡が出ました。
実際には浸水していません。床はまだ乾いていました。それなのに、壁の下から四十センチほどの高さに、泥水が引いたあとのような水平線が現れていた。備品棚にも、折りたたみ椅子にも、入口の扉にも、同じ高さの線が残っていました。
そして、その線の下だけ、掲示物の文字が薄くなっていたそうです。
避難経路。非常口。土砂災害。氾濫。そうした言葉だけが、紙の繊維から抜け落ちたように白くなり、読めなくなっていました。読めるのは、ひとつの言葉だけでした。
三時間以内。
それだけが、どの掲示物にも残っていたといいます。
明け方、雨は峠を越えました。川もあふれず、土砂も町までは来なかったそうです。避難所は朝に閉じられ、マットは乾かして倉庫へ戻されました。
けれど、片付けの時に一枚だけ、どうしても畳めないマットがあったといいます。折り目の位置が変わっているのです。何度たたんでも、三つ折り目の真ん中に、細い泥の線が残る。拭いても、洗っても、乾くとまた浮かぶ。
そのマットの裏側には、誰も書いた覚えのない小さな字がありました。
「ここまで来ていた」
それが水のことなのか、雨のことなのか、それとも避難してきた何かのことなのかは、誰も確かめていないそうです……そんな話を聞きました。
この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。
熊本県に線状降水帯直前予測
熊本県に線状降水帯直前予測気象庁は熊本県に線状降水帯直前予測に関する気象防災速報を26日午前0時9分に発表しました。 熊本県阿蘇地方では今後3時間以内に線状降水帯が発生し、土砂災害や氾濫などで周囲の状況が一変して避難が困難に

