錆の送り状

写真怪談

あの歩道橋からは、線路が束になって見える。

旅客線、地下へ沈む線、貨物の留置線。違う会社の線路が、そこでだけ黙って隣り合っている。白い鉄骨の橋桁が視界を横切り、架線は空に斜めの傷をつけ、下ではポイントが何度も分かれて、また近づく。

昼間は明るすぎて、怖い場所には見えない。

知人は近くの倉庫で働いていて、昼休みにその歩道橋を渡ることがあった。ある日、手すりに肘を置いた瞬間、そこだけ妙に冷たいことに気づいた。

日差しを受けた鉄は、ほかの部分なら熱を持っている。けれど掌を置いた場所だけ、冷蔵庫の棚のように冷えていた。慌てて手を離そうとしたが、皮膚が薄く吸いついたように動かなかった。

痛みはない。

ただ、手の下で鉄が少しだけ沈んだ。

柔らかいわけではない。へこんだ音もしない。それなのに、掌の形ではなく、長方形の面だけが一ミリほど奥へずれた。まるで手すりの中に、昔からそこへ貼られていた札があり、外から押した拍子に内側へ戻ったようだった。

ようやく手が離れたとき、掌には汚れひとつ付いていなかった。

そのかわり、生命線も感情線も、長方形の範囲だけ浅く消えていた。皮膚が削れたのではない。指でなぞると、そこだけ紙の裏面みたいに平らで、手相というものが最初から印刷されていなかったように見えた。

そのとき、下の線路が一斉に静かになった。

電車が止まったわけではない。遠くでは車輪の音もしている。街のざわめきもある。なのに、歩道橋の真下だけ音が抜けた。

線路そのものが、見慣れない形に組み替わっていた。

ポイントの曲がり方が、ありえない。さっきまで右へ分かれていた線が、いつの間にか左の線と並び、複数のレールが下の敷地でひとつの長方形を囲っていた。車両が入る場所ではない。ホームでもない。ただ、何かを一時的に置くためだけの枠に見えた。

白い橋桁の影が、その枠の上に重なっていた。

ひと区画だけ、影が濃かった。通過するものがないのに、架線が順に小さく震えた。碍子の白い丸だけが、橋のこちら側へ向き直ったように見えた。

知人はその場を離れた。

倉庫に戻って手を洗っても、掌の長方形は消えなかった。赤くも黒くもならない。ただ、手相の線だけがそこを避けている。蛍光灯の下で見ると、そこだけ他人の皮膚を貼ったように均一だった。

翌朝、倉庫の端末に一件だけ見慣れない入庫記録が出た。

品名は空欄。重量も空欄。発送元も到着先もない。ただ、備考欄に「橋上」とあった。時刻は、知人が昨日あの歩道橋で立ち止まった時間と同じだった。

社員の誰もその記録を作っていない。端末の不具合だろうという話になり、昼には削除された。

けれど削除したあと、プリンターが一枚だけ紙を吐いた。

送り状だった。

印字は薄く、ほとんど読めない。品名の欄には何もない。数量の欄にも何もない。だが右下に、押印欄だけがあった。

そこには朱肉の跡も、社印もない。

ただ、白い紙の繊維が、丸く潰れていた。指で押したような跡ではなく、掌の一部を押し当てたような、広くて平らな跡だった。

その日から、知人は線路の音を聞き分けられなくなった。

遠くで電車が通るたび、それが地上の線なのか、地下へ沈む線なのか、貨物の線なのか、分からない。家の窓を閉めても、布団に入っても、必ずひとつだけ音のない間が混じる。

がたん、がたん、という音の列の中で、一両ぶんだけ何も鳴らない。

その無音が来るたび、掌の平らな場所が少し広くなった。

三日目、知人はもう一度、昼に歩道橋へ行った。確かめるつもりだったという。あの場所に、何か残っているのか見たかっただけだった。

橋の上はいつも通り明るかった。下には複雑に分かれた線路があり、黄色い保守用の柵が並び、遠くの建物の壁が白く光っていた。

ただ、手すりの一か所だけ、塗装の艶が違っていた。

知人が掌を置いた場所だ。

そこだけ長方形に鈍く光っている。磨かれたのではない。古びた鉄の表面から、何か薄いものを剥がしたあとに見えた。枠の右下には、丸くも四角くもない、押しつぶされた白い跡があった。

下を見ると、線路と線路のあいだの砂利が一か所だけ乱れていなかった。

周囲の石は茶色く、油と土で汚れている。けれどその部分だけ、コンテナ一つ分ほどの長方形に石の向きが揃っていた。誰かが踏み固めたわけではない。重いものが置かれていたなら沈むはずなのに、そこだけ逆に、地面が少し高く見えた。

知人は線路内へ降りられない。

けれど、橋の上からでも分かった。その長方形の中央には影がなかった。白昼の橋の下で、そこだけ光も影も受けていない。何もない空白が、場所だけを占めている。

その日の夕方、また端末に入庫記録が出た。

備考欄は同じだった。

橋上。

削除すると、プリンターが送り状を吐いた。右下の押印欄には、前より大きな白い潰れ跡があった。今度は五本の筋が見えたという。

知人はそれを、手形とは呼ばない。

「あれは受領印だ」と言う。

それ以来、彼はあの歩道橋を渡っていない。

ただ、職場の端末には今でも月に一度、空欄だらけの入庫記録が出る。削除しても、翌朝には印刷される。送り状の紙は毎回、右下だけが潰れていて、押したものの形が少しずつ人の掌に近づいている。

知人の掌からは、もうほとんど線が消えた。

消えたのは右手だけではない。最近は左手にも、同じ長方形の平らな場所が出てきた。指紋認証は通らない。紙を持つと、指の腹ではなく掌の真ん中だけが先に紙へ吸いつく。

まだ誰かが、彼を受け取りに来ていない。

そして彼の手だけが、先に受領の準備を終えている。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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