青い朝の荷

写真怪談

その家が昔、八百屋だったことを知っている人は、もう近所にもそれほど多くない。店を畳んでからかなりの年月が経っていた。通りに面していた売り場は壁で塞がれ、今では普通の民家にしか見えない。看板も庇もなく、道路から見えるのは淡い色の外壁と植木、それに屋根の上を何本も横切る電線だけだった。

ただ、早朝だけは少し違った。まだ街灯の明るさが残り、空が濃い青から薄い水色へ変わり始める頃、その家の前を通ると、青臭い匂いがした。草の匂いではない。切ったばかりの胡瓜や、折れたトマトの茎、泥のついた葱をまとめて箱へ詰めた時のような匂いだったという。

近くで新聞配達をしていた人は、夏の終わり頃からそれに気づいていた。毎朝同じ場所で匂うわけではなく、風向きによって少し位置がずれることはあったが、元八百屋だった家の前を離れると、数歩もしないうちに完全に消えた。庭に家庭菜園があるわけでもない。最初のうちは、家の中で誰かが朝食の支度でもしているのだろうと思っていたという。

ところが十月に入り、気温が下がっても匂いは続いた。むしろ濃くなった。ある朝などは、家の前に自転車を止めた瞬間、目の奥が痛くなるほど強い青臭さが鼻へ入ってきた。大量の青菜を狭い倉庫に積み上げた時のような、冷たく湿った匂いだった。

その日、家の住人がちょうど玄関から出てきた。配達員が「野菜でも届いたんですか」と聞くと、住人は怪訝な顔をした。何も届いていないという。それどころか、その家では少し前から、早朝だけ妙なことが起きていた。

道路側の部屋の壁が濡れるのだという。雨漏りではなかった。雨の降らない日でも、午前五時前後になると壁の表面に透明な粒が浮かび、指で触れると水よりわずかに粘りがあった。乾いたあとには薄い光沢が残り、その液体からは野菜の匂いがした。

住人は一度、布で完全に拭き取ったことがある。布には緑色も茶色も付かなかった。ただ透明な水分だけが染みた。それなのに洗濯して乾かしたあとも、布からは一週間ほど青臭い匂いが取れなかった。

気になって壁をよく見ると、濡れている場所には規則があった。液体は壁全体から出ているのではなく、横長の四角い範囲にだけ浮いていた。その四角が、縦に三つ、横に二つ。全部で六個並んでいた。大きさは、昔の木箱を壁へ押しつけたような程度だったという。

午前六時を過ぎ、東の空が明るくなる頃には粒は減り始める。日が建物の屋根を照らす頃には完全に乾いてしまい、壁を触っても普通の冷たい壁に戻っていた。昼間に業者が調べても異常は出ず、壁内部の湿度も正常で、近くに水道管もない。断熱材の状態も悪くなく、結露が起きる条件ではないと言われた。

それでも翌朝になると、六つの四角はまた濡れた。

住人は壁紙を剥がした。その日は午前四時半から部屋にいて、何も貼られていない石膏ボードを見ていたという。五時少し前、最初に匂いが来た。鼻の奥へ刺さるような青臭さが、閉め切った部屋の中へ急に満ちた。窓も戸も閉まっていた。

その直後、石膏ボードの表面に小さな透明の点が浮いた。一粒。その隣に、もう一粒。数十秒もしないうちに粒は増え、やがて六つの四角い範囲だけが細かな水滴で覆われた。

住人が恐ろしく感じたのは、水滴そのものではなかった。粒は壁の上から垂れてきたのではない。何もなかった表面から、ゆっくり押し出されてきていた。まるで壁の向こう側に濡れた何かが積まれていて、その汁だけが石膏を通り抜けてきているようだった。

その朝、六つの四角のうち一つだけ、匂いが違っていた。甘かった。熟れすぎた果物を割った時のような、重たい匂いだった。

住人は部屋から出た。昼になってから施工業者を呼び、道路側の壁を開けてもらった。ボードの裏側には何もなかった。断熱材も柱も乾いていて、虫も黴もなく、水が通った痕跡すら見当たらない。

ところが、外壁側の下地板を外したところで、作業員の手が止まった。板の裏側に、六つの染みがあった。室内側に現れていたものと同じ並び方だった。ただし、こちらは四角の中まで一様に汚れているわけではなかった。

一枚には細長い葉のような跡。一枚には丸いものを幾つも押し当てたような跡。別の一枚には、細い根が絡んだような筋が何十本も残っていた。表面は完全に乾いていたが、作業員が指で擦ると木の粉が少し落ちた。

その瞬間、部屋中に匂いが広がった。

土。青菜。潰れた柑橘。段ボール。

誰も何も言わなかったという。

壁を閉じる前に、染みのある部分を小さく切り取った。腐食しているなら交換したほうがいいという判断だった。六か所すべてを新しい下地へ替え、その上からボードと壁紙を張り直した。それ以来、家の壁が濡れることはなくなり、早朝の匂いも消えた。新聞配達員も、元八百屋の前を通って何も感じなくなったという。

切り取った板は工事の廃材として処分された。ただ、一片だけ、作業員が材質を確認するため事務所へ持ち帰っていた。掌より少し大きい程度の板で、表面には丸い染みが二つ残っていた。

数週間後、それを片づけようとした別の作業員が妙なことに気づいた。板は透明な袋に入れられ、乾燥した資材棚の奥へ置かれていた。それなのに、袋の内側が濡れていた。時刻は午前五時十二分だった。

袋を開けると、強い野菜の匂いがした。中の板は乾いたままだった。ただ、丸い染みの上だけに、透明で粘りのある粒がいくつも浮いていた。作業員は袋を閉じた。

その板は現在も、処分せず二重の容器に入れて保管しているらしい。昼間に開けても何も起きない。匂いもしない。けれど早朝、空が写真のような青さになる頃だけは、容器の蓋を開けなくても分かるという。

青臭い匂いが、少し漏れてくる。

元の家では、もう何も起きていない。だからあの六つの四角が、昔そこに積まれていた野菜の痕だったのか、それとも別の何かを入れていた箱の痕だったのかは、結局誰にも分からない。

分かっているのは一つだけだ。店はとっくに閉まっている。それでも、朝の荷だけは、しばらく届き続けていた。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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