川沿いの住宅地に、少し妙な場所がある。左には川に沿った細い遊歩道、右には家並みの間を抜ける狭い路地があり、その二本が分かれる先端に赤い郵便ポストが立っている。頭上には電線が重なり、ポストの脇には大きなカーブミラーが一本、住宅街の曲がり角を映している。
昼間に通れば、何もおかしくは見えない。ポストの後ろには古びた板壁と植え込みが詰まっていて、人が立てるほどの隙間もない。川側の遊歩道と路地側から同時に見ても、その一画に家一軒が入り込める余地などないことはすぐ分かる。
それでも、そこには時々、家が建つ。
いつ出るのかは、かなり後になって分かった。秋口のよく晴れた日で、川の水位が低く、午後の集配を終えた直後であること。そしてカーブミラーの支柱が落とす細長い影の先端が、路面にある四角い蓋の中央へ差しかかっていること。
その三つが揃うと、赤いポストの後ろに、古い木造家屋が現れる。
最初に記録を残したのは、その地区を担当していた郵便の集配員だった。午後の便を回収し、空になったポストの扉を閉めた直後、背後で木材が荷重を受けるような低い音がしたという。振り返ると、それまで板壁しかなかった場所から、黒ずんだ瓦屋根が路地側へ張り出していた。
軒は低く、二階はない。煤けた木の格子と曇りガラスの引き戸があり、戸の脇には錆びた牛乳箱のようなものが取り付けられていた。昭和の古い住宅街ならどこにあっても不思議ではない、小さな平屋だったという。
問題は、その奥行きだった。
家はポストの真後ろから川のほうへ伸びている。しかし数歩も行けば遊歩道へ突き抜けるはずなのに、家の側面にはまだ何枚も雨戸が並んでいた。集配員が川側へ回ってみると、遊歩道も柵も消えていない。そこから見ても家はある。細長い家の裏壁だけが、川と遊歩道の間に当然のように立っていた。
路地も狭くなっていなかった。
つまり、その家は何かを押しのけて建っているのではなかった。存在する余地のない場所に、必要なぶんだけ奥行きを持っていた。
集配員は玄関には近づかなかった。路地の向こうから買い物帰りらしい住人が来たため、そちらへ目をやったほんの数秒の間に、家は消えていたという。ポストの後ろには、いつもの板壁と植え込みしかなかった。
その件は正式な報告にはならなかった。ただ、別の集配員が数年後、同じ場所で「古い家が邪魔でポストの裏へ回れなかった」と話したことから、担当者の間だけで妙な話として残った。
さらに、市の道路管理を請け負う作業員からも似た証言が出た。道路脇の設備を確認していた午後、ポストの裏に玄関があり、そこから濡れた畳のような匂いがしていたという。そのときも晴天で、川はかなり水位を下げていた。
昔の住宅地図や航空写真も調べられた。
だが、あの場所に住宅が描かれていた時期は一度もなかった。川の護岸工事以前の古い図面まで遡っても、家一軒分の敷地は存在しない。遊歩道と現在の路地の位置関係が多少違った時期はあったものの、問題の一画は昔から細長い境界部分だった。
何度かの目撃日を照らし合わせて、奇妙な共通点が判明した。川が一定の水位を下回っている。強い日差しがあり、ミラーの支柱の影が四角い蓋を横切る。そして、その瞬間にポストの中が空になっている。
最後の条件については偶然ではなかった。
一度、同じ天候、同じ水位の日に、わざと封筒を一通残したまま集配扉を閉めたことがある。その日は何も起きなかった。翌週、条件の近い日に中身をすべて回収すると、数十秒後、板壁の継ぎ目が横へずれるように広がり、その奥から古い玄関が出てきた。
そこで一度だけ、詳しく調べることになった。
郵便側の担当者一人と、道路管理の作業員二人が立ち会った。川の水位は低く、空は写真に残せば不自然なくらい青かったという。午後の回収が終わり、ポストを空にして待っていると、支柱の影がゆっくり四角い蓋へ重なった。
家は、建っていくのではなかった。
最初からそこにあったものを、目だけが急に認識したように現れた。
古い瓦も、木の雨戸も、ガラス戸に積もった埃も、一瞬前からそこにあったように完成していた。壁に触れると日差しで温かく、指には細かな木の粉まで付いた。作業員の一人が玄関を開けると、戸は重く滑り、奥から畳と川底の泥を混ぜたような匂いが流れてきたという。
三人のうち一人だけが中へ入った。念のため腰に細い測量用のコードを結び、残る二人が外で端を持った。
玄関のすぐ先には六畳ほどの部屋があり、その奥に短い廊下が続いていた。外から見た家の奥行きを考えれば、その廊下だけでも遊歩道を突き抜けているはずだった。だが窓から外を見ると、すぐ横を遊歩道の柵が通り、その向こうに川が見えている。
外にいる二人にも、その窓は見えた。
ただし、位置が合わなかった。
中の作業員が窓から手を振ると、外からは家のいちばん奥にある窓で手が動いたように見えた。ところがコードは玄関から四メートルほどしか伸びていなかったという。
作業員はそこで戻るつもりだった。
そのとき、奥の廊下の先に、赤いものが見えた。
壁の隙間から外が見えているのだと思ったらしい。しかし近づいてみると、それは外にある現在の郵便ポストだった。玄関前に立っているはずの赤い箱を、家の最奥部から真正面に見ていた。
しかも、こちら側に向いていたのはポストの正面ではない。
背面だった。
鉄板の裏側には、縦に長い黒い染みが一本付いていた。作業員はそれを見て、自分が入ってきた玄関の方向を振り返った。
玄関の向こうにも、同じ赤いポストが見えていた。
外で待っていた二人には、その異変は見えなかったという。ただ、手に持っていた測量コードだけが突然たるみ始めた。中へ入った作業員が戻ってきたわけではない。コードそのものが、家の中へ引き込まれながら短くなっていた。
同時に、路地側から自転車が一台近づいてきた。
乗っていた住人は家には目も向けず、赤いポストの前で止まった。バッグから封筒を取り出し、投函口へ入れた。
金属の底へ封筒が落ちる音がした。
家の内部にいた作業員によると、その音は玄関側からではなく、廊下の奥から聞こえたという。
次の瞬間、家全体が急に浅くなった。
壁が動いたのではない。奥の部屋も廊下も、その形のまま距離だけを失った。数メートル先にあった柱が目の前まで迫り、畳の縁が一気に縮み、背後にあったはずの部屋が薄い板一枚ほどの厚さになった。
作業員は玄関へ走った。外にいた二人がコードを引き、身体を半ば引きずるようにして路地へ出した。
三人が倒れ込んだとき、家はなかった。
ポストの後ろには、元からある板壁があるだけだった。自転車の住人も何も気づかなかったらしく、そのまま路地の奥へ走っていったという。
中へ入った作業員の右腕には、肩から手首まで黒い筋が一本付いていた。油でも煤でもなく、濡れた古材へ強く擦った時につくような色だった。作業着はそこだけ細かく毛羽立ち、袖口には数本の木の繊維が刺さっていた。
鑑定に出すほどの話ではないとして、その場では処分された。
ただし別のものが残った。
数か月後、ポストの固定部を補修した際、一本のボルトが交換された。路面のコンクリートへ打ち込まれていたはずのボルトなのに、ねじ山の奥から黒く変色した木の繊維が何本も出てきたという。
穴の内部を照らしても、木材は見えなかった。周囲を探っても、ポストの下は普通のコンクリートだった。
そのボルトだけは捨てられず、今も関係者の一人が保管しているそうだ。
それ以降、午後の集配時刻が変更された。カーブミラーの影が問題の場所へ届くより少し前に回収を終えられるようになったため、家はほとんど見られなくなった。
担当者の間では念のため、条件が近い日はポストを完全に空にしないようにした時期もあったという。回収後、試験用の無地の封筒を一通だけ入れておく。影が通り過ぎてから、それも回収する。
そうしている限り、家は出なかった。
ところが二年前の秋、その無地の封筒が一枚なくなった。
投入口は施錠されていた。担当者自身が数分前に入れたもので、ほかの郵便物はなかった。念のため底まで手を入れて確認したが、封筒は見つからなかったという。
その日はよく晴れていた。
川の水位も低かった。
担当者が顔を上げたとき、カーブミラーの支柱から伸びた影は、ちょうど四角い蓋の中央を横切っていた。
振り返らなかったそうだ。
ただ、ポストのすぐ後ろで、古い木の引き戸をゆっくり開けたような音が一度だけした。
翌朝、ポストの回収口を開けると、底には郵便物とは別に、薄い木片が一枚落ちていた。
黒ずんだ杉のような木だった。
片側には赤い塗料が付いていた。
現在使われているポストの赤よりも、ずっと暗い色だったという。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

