都内のある駅では、数年前から大規模な改良工事が続いていた。駅に隣接する新しいビルが建設され、それに合わせて、ホームの端から新しい改札口へ直接上がれるエスカレーターも設けられることになった。
工事はかなり進んでいたが、改札もエスカレーターも、まだ供用開始前だった。ホームには白い仮囲いが設置され、その向こうに真新しいエスカレーターの一部が見える。隣には二台の自動販売機が並び、屋根を支える古い鉄骨や柱が、新しい設備と入り混じっていた。
昼間は日差しが強く、屋根の影がホームの床を斜めに区切っていた。電車が発着するたびに大勢の乗客が行き交うものの、仮囲いの前まで来る人はほとんどいない。そこから先には、まだ通れる場所がなかったからだ。
その場所で、妙なことが起きるようになった。
ホームの清掃を担当していた作業員は、ある日の午後、自動販売機の横を通り過ぎようとした。電車が出た直後で、周囲にはほとんど人がいなかった。床に落ちた小さな紙くずを拾い、立ち上がったとき、すぐ後ろに誰かが立った気配がした。
人の身体が近づくときの、あの独特の感覚だったという。衣服が擦れるような微かな音と、誰かの呼吸が耳のすぐ横を通ったような気配。反射的に身体をずらしたが、振り返っても誰もいなかった。
ただ、奇妙なことに、誰かを避けようとした自分の動きだけが妙にはっきりと残っていた。右肩を引き、半歩横へ寄り、相手が通り過ぎるまで待つ。普段、混雑したホームで何度も繰り返している動作だった。
それから数日間、同じことが続いた。
決まった時刻ではなかった。朝の通勤時間帯には何も起きず、むしろ乗客の少ない昼過ぎに多かったという。白い仮囲いの手前を歩いていると、不意に誰かが近づいてくる。姿は見えない。それなのに、そこを通ろうとしている人間がいるとしか思えず、無意識に道を譲ってしまうのだった。
ある日、駅の警備員が同じ場所で立ち止まっていた。作業員が声をかけると、警備員は少し困ったような顔で、今、誰かに肩を触られた気がしたのだと言った。
警備員は工事関係者が仮囲いの脇から出てきたのかと思い、そちらを確認したという。しかし、工事区画に通じる扉は施錠されており、出入りした形跡もない。仮囲いの裏側に人がいるのかと耳を澄ませても、工事の音すら聞こえなかった。
そのとき、作業員は以前から気になっていたことを話した。
「ここ、誰かが通ってるような気がしませんか」
警備員はすぐには答えなかった。ただ、白い仮囲いと自動販売機の間に視線を向け、そこに誰もいないことを確かめてから、小さく頷いた。
二人が気にしたのは、どちらも同じ場所だった。仮囲いの端からホームの中央へ抜ける、数メートルほどの空間である。新しいエスカレーターが開通すれば、改札から降りてきた人がちょうどそこを通ることになる。
しかし、今は誰も降りてこられない。
警備員は念のため、工事の担当者に確認した。エスカレーターはすでに設置されていたが、電源系統の最終確認が済んでおらず、一般の乗客はもちろん、作業員も必要な点検以外では使用していないという。上階の新しい改札口も閉鎖されており、外部から入り込める状態ではなかった。
その説明を聞いてから、作業員はなるべく仮囲いに近づかないようにした。
それでも清掃の都合上、完全に避けることはできない。ホームの端に置かれた自動販売機の周囲には、空き容器やレシートが落ちていることもある。列車の発着の合間を見て、そこを掃除する必要があった。
異変がはっきりとした形で現れたのは、よく晴れた午後だった。
その日はホームの屋根の下まで日差しが入り、柱の影が床に長く伸びていた。作業員は自動販売機の脇を掃き終え、清掃道具を持って引き返そうとしていた。周囲に乗客はいなかった。
白い仮囲いの前を横切った瞬間、正面から誰かが歩いてきた。
姿が見えたわけではない。
しかし、今度は単なる気配では済まなかった。胸の前に突然、人間の身体ほどの硬さを持った空間が現れたのである。作業員は咄嗟に左へ避けようとしたが、その方向にも別の誰かがいた。
布地のようなものが腕を擦った。すぐ横で、誰かが息を吸い込んだ。
肩を引くことも、前へ進むこともできなかった。
作業員は思わず後ずさった。ところが背中にも、誰かの身体があった。確かに自分の背後には白い仮囲いがあるはずなのに、その手前にもう一人、人間が立っているような圧迫感があったという。
無理に身体を捻った瞬間、右腕に強い力がかかった。
誰かが通り抜けようとして、作業員の肩を押しのけた。
そうとしか思えない感触だった。
清掃道具が床へ落ち、乾いた音を立てた。その音をきっかけにしたように、周囲の圧迫感が消えた。作業員はよろめきながら柱へ手をつき、しばらく動けなかった。
目の前には誰もいなかった。
白い仮囲いも、自動販売機も、いつもと変わらない。遠くでは次の列車の接近放送が流れていた。強い日差しの中で、ついさっきまで身体を押し合っていたはずの人間だけが、跡形もなく消えていた。
騒ぎを聞いた警備員が駆けつけた。作業員は事情を説明し、二人で周囲を確認した。その途中、警備員が仮囲いの端にある金属製の支柱を見て、手を止めた。
支柱の表面に、細い傷ができていた。
それまでにも多少の傷はあったが、新しく付いたものは明らかに違っていた。金属の表面が削れ、銀色の地肌が露出している。高さはちょうど、大人が鞄を肩に掛けて歩いたとき、金具が当たりそうな位置だった。
傷は一本ではなかった。
短いものが数本、斜めに重なり、そのうち一本だけが深く削れていた。まるで狭い通路で何人もの人がすれ違い、肩や荷物を何度もぶつけたように見えた。
工事担当者を呼んで調べてもらったが、支柱に緩みはなかった。仮囲いも規定どおり固定されており、隙間から人が出入りできる構造にはなっていない。さらに不思議なのは、傷が付いていた場所だった。
通路に面した広い側面ではなく、仮囲いとの間にわずかにできた、手を差し込むのが精いっぱいの狭い部分に集中していたのである。
誰かがそこを通ろうとしたのなら、身体を横向きにしても無理だった。
それなのに、傷だけは通行方向へ引きずられていた。
その後、支柱には保護材が巻かれた。作業員が接触して怪我をしないようにするため、という説明だった。表向きには、それで問題は解決したことになった。
しかし、作業員はそれ以来、その場所を通るたびに奇妙な感覚を覚えるようになった。
仮囲いの向こうに誰かがいる、というだけではない。
むしろ、向こうから降りてきた人が、こちら側へ出ようとしている。そんな気配だったという。
あるとき、作業員は試しに、誰もいない仮囲いの前で立ち止まってみた。
背後では電車が発車し、ホームから人の姿が消えていった。しばらくそのまま待っていると、正面から微かな衣擦れの音がした。音は近づいてくるのではなく、すぐそこを通り過ぎていくようだった。
続いて、右側から別の音がした。
さらに左側からも。
その場には作業員しかいない。それなのに、何人もの人が互いの身体を避けながら、狭い通路を行き交っている気配があった。
作業員はそのとき、ひとつのことを考えてしまった。
自分が今立っている場所は、開通後には大勢の乗客が通る場所になる。エスカレーターから降りてきた人がホームへ向かい、逆に改札へ上がる人がそこを通る。混雑すれば、肩が触れ合うことも珍しくないだろう。
では、今ここですれ違っているのは、誰なのか。
新しい改札はまだ開いていない。エスカレーターも動いていない。人が降りてくるはずの経路そのものが、まだ存在していないのと同じだった。
その日の夕方、作業員は警備員にもう一度相談した。
警備員はしばらく考えたあと、以前、自分も妙な経験をしたことを打ち明けた。仮囲いの前を巡回していた際、誰もいない場所から肩を押され、思わず「どうぞ」と言いそうになったのだという。
それだけなら、疲れていたのかもしれない。
ただ、その直後、背後から誰かが通り過ぎたときのように、制服の裾がふわりと持ち上がった。
風は吹いていなかった。
そして何より、そのとき警備員は、誰かに道を譲った自分の立ち位置が気になったそうだ。
人のいない仮囲いの前で、わざわざ身体を小さくして、壁際へ寄っていた。
まるで、そこにはすでに通路があり、自分だけが通行の邪魔をしているかのように。
工事はその後も続いた。
新しい改札が開通するまで、ホームの端には白い仮囲いが残された。支柱に巻かれた保護材も、そのままだった。
ところが、ある日の点検で、保護材の内側に異常が見つかった。
厚みのある緩衝材が、支柱との間で強く押し潰されていたのである。外側には目立った傷がない。それなのに、内側には金属へ食い込んだような深い溝が何本もできていた。
保護材を交換した作業員は、妙なことを言った。
「これ、外から押したんじゃないですね」
金属製の支柱が、保護材を内側から削るように変形していた。固定金具の位置は変わっていない。支柱そのものが、ほんのわずかだが、ホーム側へ曲がっていた。
誰かが無理やり通ろうとしている。
それも、仮囲いの向こう側から。
現在、その場所では開通に向けた準備が進められているという。
白い仮囲いはいずれ撤去され、新しい改札とエスカレーターを利用する人々が行き交うようになる。工事が終われば、あの不自然なすれ違いも、誰も気にしなくなるのかもしれない。
ただ、作業員はひとつだけ気になっていることがある。
支柱にできた傷をよく見ると、深く削れた部分が、すべて同じ方向へ伸びていたのだという。
新しい改札からホームへ降りてくる方向だった。
そして、仮囲いの前で何度も感じた、あの人の気配。
思い返してみれば、こちらから改札へ向かって歩いていくものに出会った覚えは、一度もなかった。
すれ違っていると思っていたが、違ったのかもしれない。
あの場所にいた何人もの人間は、みな同じ方向へ進もうとしていた。
まだ開いていない改札から。
まだ動いていないエスカレーターを降りて。
誰もいないはずのホームへ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


