頭上注意の空白

写真怪談

昼間なら、わざわざ足を止めるような路地ではない。

集合住宅のあいだを抜ける細い道で、頭上には何本もの電線が渡り、脇には小さな駐車設備と駐輪スペースがある。晴れた午後には建物の影が舗装をくっきり分け、自転車を押した住人や買い物帰りの人が、日常的に行き来していた。

その駐車設備の上に、ひとつだけ妙に目立つ看板がある。

青い案内板の下に、赤地で「頭上注意」と書かれている。

初めて通る人なら、上段に置かれた自転車か、設備の屋根に頭をぶつけないよう注意しているのだと思うらしい。実際、その説明で納得してしまえば、それ以上気にするものでもない。

ただ、近所で長く暮らしている人の中には、その看板の少し手前で、自転車から降りる人がいる。

理由を聞いても、大抵は「道が狭いから」としか答えない。

数年前、この一帯の設備点検を担当した作業員が、その習慣を不思議に思ったという。

午後二時過ぎだった。

路地には強い日差しが差し込み、電線の影まで舗装に細く落ちていた。作業員は次の建物へ移動するため自転車に乗り、例の看板の下を通り抜けようとした。

その瞬間、頭頂部に硬いものが当たった。

梁に頭をぶつけた時のような衝撃だったという。

思わずブレーキをかけ、頭を押さえて振り返った。しかし、そこには何もない。看板そのものは道路の端にあり、頭上の電線は遥かに高い。樹木の枝も張り出していなかった。

作業員は帽子を脱いだ。

帽子の頂上に、横一直線の折れ目がついていた。

新品に近い作業帽だったため、それまでそんな癖はなかったという。幅は指二本ほど。何か平たい縁へ強く押しつけたように、生地だけがきれいに潰れていた。

その日の点検報告には書かなかった。

ところが数日後、同じ会社の別の作業員が、同じ場所で似たことを言った。

こちらは自転車ではなく徒歩だった。路地の中央を歩いている途中、髪を上から撫でられたような感触があり、反射的に屈んだという。

見上げても何もなかった。

ただ、その人の髪には、白い粉が少量付着していた。

建物の外壁材にも、電柱にも使われていない粉だった。指で擦ると非常に細かく、石膏のようにも見えたらしい。風で飛んできたものだろうという話になり、その時も深く調べなかった。

異変が続いたのは、それからだった。

通行人から駐車設備の管理会社へ、「頭上の何かに当たった」という連絡が二件入った。

一件は、自転車に乗っていた住人だった。もう一件は、子どもの手を引いて歩いていた人だった。

どちらも怪我はなかった。

ただし二人とも、同じ場所を示した。

「頭上注意」の看板から、道路の中央へ一メートルほど入ったところだった。

管理会社は脚立を持ち込み、周囲を調べた。

電線の垂れ下がりもない。看板の金具にも突出した部分はない。建物から針金や透明な糸が張られている様子もなかった。

念のため、長い清掃用の柄を真上へ伸ばしてみた。

何にも当たらなかった。

三メートル以上ある柄は、そのまま青空へ向かって上がった。

作業員の一人が冗談半分に、「じゃあ頭なら当たるのか」と言った。

誰も笑わなかったという。

その場にいた管理担当者が、以前から気になっていたことを話したからだった。

古い設備資料の中に、その看板の設置記録だけが残っていた。

設置理由の欄には、「頭部接触防止」と書かれていた。

何に接触するのかは記載されていない。

施工図を見る限り、看板が設置された当時も、道路上には梁も庇もなかった。

さらに妙なのは、その看板自体が事故防止のため後から付けられたものだったことだ。

つまり、先に何かがあり、それを理由に「頭上注意」が設置されたことになる。

管理会社は看板を交換することにした。

日焼けも進んでおり、ちょうど更新時期だったという。

取り外された古い看板を地面へ下ろした時、作業員の一人が表面を見て手を止めた。

赤い部分の上端近くに、細い黒い線が何本も見えた。

汚れにしては妙だった。

透明な保護フィルムを剥がしてみると、それは髪の毛だった。

短いもの、長いもの、白髪らしいものまで混じっていた。

問題は、その位置だった。

髪はフィルムの表面に付着していたのではない。

印刷面と透明フィルムの間に挟まっていた。

看板を製造した時から入っていたのでは、とメーカーにも確認した。しかし施工当時の写真では、印刷面に異物は見当たらなかった。しかも髪は一本ずつ同じ方向へ寝ていて、誰かが額から頭頂部までを、看板の内側へ何度も擦りつけたように並んでいた。

古い看板は廃棄せず、管理会社の倉庫へ持ち帰られた。

新しい「頭上注意」が、同じ位置へ取り付けられた。

それからしばらく、連絡は途絶えた。

近所の人も安心したのか、以前より自転車で通り抜ける姿が増えたという。

半年ほど経った夏の午後だった。

管理担当者が別件で現場を訪れた時、二人連れが向こうから歩いてきた。

一人は自転車を押していた。

看板の数メートル手前で、二人ともほとんど同時に頭を下げた。

会話をしながら、ごく自然に。

そこには、屈まなければならないものなど何もない。

担当者は声をかけようとしたが、やめた。

二人はそのまま通り過ぎ、路地の奥へ歩いていった。

気になって新品の看板を見ると、透明な表面の内側に、薄い筋が一本できていた。

まだ数センチほどだった。

数か月後には二十センチほどになった。

翌年には、「頭上」という二文字のすぐ上まで伸びていたという。

現在も看板は交換されていない。

管理会社では、この路地について特別な注意事項を出しているわけでもない。問い合わせがあれば、駐輪設備が近いため掲示している、と説明しているそうだ。

ただ、担当者の間にはひとつだけ申し送りがある。

晴れた午後に現場へ行く時は、路地の中央を歩かない。

自転車なら、手前で降りる。

そして頭上に何も見えなくても、「頭上注意」の下では少しだけ頭を下げる。

理由は書かれていない。

古い看板も、まだ倉庫に残っている。

最近確認した人によれば、保護フィルムの内側に挟まった髪は、取り外した当時より増えているように見えるという。

もちろん倉庫の中には、誰も通り抜けられる道などない。

ただ看板だけが壁に立てかけられている。

その上には、何もない。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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