仕事帰りに、駅裏の小さな居酒屋へ入った。混み合う時間を少し外していたせいか、客は少なく、通されたのは木目の濃いカウンターの端だった。瓶ビールを一本と、店のおすすめだという鹿肉のソーセージを頼むと、黒い角皿に四本、付け合わせの葉物と紫玉ねぎを添えて出された。前には白い取り皿、そこへ黒い箸が一本の線みたいに斜めに置かれていた。
店主は「山の猟師から入ったやつです」とだけ言った。皮は強めに焼かれていて、ところどころ炭の焦げ目がある。噛むと、ぱりっと音がして、煙の匂いと獣肉の濃い脂が広がった。すぐに瓶ビールを流し込むと、喉の奥でようやく一日が終わった気がした。
最初の一本を半分ほど食べたとき、右隣から、同じタイミングで何かを噛み切る音がした。
思わず顔を向けたが、隣の席は空いていた。椅子も引かれておらず、カウンターの上にも何もない。気のせいだろうと思ってグラスを持ち上げたが、背後の酒瓶の丸い反射の中にだけ、こちらへ向けて肘をつく腕が一本、ぼんやり映っていた。
見間違いかと思って視線を戻すと、角皿にはまだ四本のソーセージがあった。
食べかけの一本がなくなったわけではない。ただ、いちばん手前の一本の先端が、ほんの少しだけ欠けていた。自分が口にした跡とは形が違う。もっと狭く、前歯だけでちぎったような欠け方だった。
二本目に箸を伸ばしたとき、グラスの底にできた水の輪が、コースターの上で丸く広がらず、細長く二つに割れた。鹿のひづめみたいだ、と考えた瞬間、また右隣で咀嚼の音がした。今度ははっきり、私の噛む速さに合わせていた。
気味が悪くなって本数を数え直した。四本。
一本持ち上げて食べ、皿を見ても、やはり四本。
ただし、そのたびに焦げ目の位置だけが変わっていく。いや、焦げ目ではない。よく見ると、どれも浅い歯型だった。一本ずつ、誰かにかじられた跡が増えていた。
「これ、最初から四本でしたよね」
そう訊くと、店主は洗い物をする手を止めずに、「山の肉は、席で勘定が合うんです」と言った。
意味がわからず黙っていると、少し間を置いて、こちらを見ないまま続けた。
「足りないぶんは、食べた人が払います」
冗談にしては言い方が平坦すぎた。笑って流そうとして三本目にかぶりつくと、歯の裏で硬いものが当たった。吐き出しかけて舌先で探ると、小さな金属片だった。散弾の粒みたいに丸く、ぬるく、生臭かった。口の中の鉄の味が急に濃くなり、ビールの泡がやけに甘く感じられた。
そのとき、隣の席から湿った獣臭がした。
恐る恐る横を見ると、やはり誰もいない。なのに、カウンターの木目だけがそこだけ黒く濡れていた。背後の酒瓶の反射に目をやると、今度は腕だけではなかった。山仕事用らしい厚手の上着を着た男が、私の隣に座っていた。帽子のつばが深くて目元は見えない。けれど口元から下がひどく欠けていて、咀嚼のたびに喉の奥の暗い穴が上下していた。
声は出なかった。
皿の上では、最後の一本の先に、白っぽい半月形のものが覗いていた。脂ではない。爪だった。焼けた皮の裂け目から、人間の小さな爪が、火の通った肉のような色をして突き出ていた。
立ち上がろうとして、箸を落とした。拾おうと左手をついた瞬間、小指の先に焼けるような痛みが走った。反射的に手を引くと、小指の腹がひと口ぶんだけ、きれいにえぐれていた。血はじわりと滲む程度なのに、そこだけ妙に白く、噛まれたみたいな半円の跡になっていた。
店主がようやくこちらを見た。
「残さなかったから、その程度で済みましたよ」
カウンターの上には、いつの間にか空になった黒い皿だけが置かれていた。四本ともなくなっていた。私が食べたのは、どう多く見積もっても三本に届かないはずだった。
会計の伝票には、鹿肉ソーセージ四本、瓶ビール一本と印字されていた。
その下に、店主の字ではない細い鉛筆書きで、こう足されていた。
「不足分 一口」
家に帰ってから、私はその店で撮った覚えのない写真をスマートフォンの中に見つけた。
木のカウンター、半分残ったビール、白い皿、黒い箸、浅漬けの小鉢、そして黒い角皿。そこには鹿肉のソーセージが四本、きれいに並んでいる。だが、いちばん手前の一本だけ、先端に爪がついていた。焼け焦げた赤黒い皮の先から、私の左手の小指と同じ形の爪が、確かに覗いていた。
それ以来、ひとりで飲むときは、料理の数を最初に必ず声に出して数えるようになった。
もしどこかの空席から、同じ数を小さく数え返す声がしたら、その皿には二度と箸をつけない。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


