平日の午後、住宅街の交差点に警察官が二人立っていた。交通規制のコーンもなければ、事故車も救急車もない。片方は交差点の手前、もう片方は細い道を挟んだ向こう側にいて、互いに向き合うような位置を取っていた。
妙なのは、二人とも車をほとんど見ていないことだった。見ているのは、そのあいだを通り抜ける人間だった。正確には、通行人の首から上を見ていた。
近所に住む会社員がそこを通ったのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。交差点へ入る直前、手前にいた警察官と目が合った。すぐに視線を外されたが、向こう側の警察官までこちらを見ている。
職務質問でもされるのかと思った。しかし声は掛からない。会社員は二人のあいだを、そのまま歩いた。
一歩。
二歩。
三歩目で、向こう側の警察官の表情が変わった。
驚いたというより、何かを確認した顔だった。会社員の目ではなく、その少し上――頭の後ろを見るように、視線を固定している。
「そのまま前を向いて歩いてください」
声を掛けてきたのは、後ろにいる警察官だった。
会社員は足を止めかけた。何か落としたのかと尋ねようとしたが、すぐにもう一度、「止まらなくて大丈夫です」と言われた。口調は穏やかだったが、冗談を言っている様子ではなかった。
それから、足音が増えた。
自分の革靴とは違う音だった。ぺた、ぺた、と、濡れた裸足で舗装を踏むような音が、一歩遅れてついてくる。
会社員が歩けば、歩く。
速度を落とせば、向こうも遅くなる。
距離は、背中から一メートルもないように聞こえた。
振り返ろうとした瞬間、向こう側にいた警察官が、わずかに首を振った。
会社員は前を向いたまま歩き続けた。
十数メートルほど進んだところで、足音は消えた。すると背後から、「もう大丈夫です」と声がした。
振り返った。
誰もいなかった。
二人の警察官はまだ同じ場所に立っていた。ただ、手前側の警察官は会社員ではなく、会社員が歩いてきた路面を見つめていた。向こう側の一人は、顔色がひどく悪かった。
会社員は戻って事情を尋ねた。
「事故でもあったんですか」
二人は短く顔を見合わせたあと、事故ではない、と答えた。
「何か、後ろで見えたんですか」
その質問には答えてくれなかった。代わりに、首の後ろに冷たさや痛みがないかと聞かれた。
何も感じない、と答えると、警察官はしばらく会社員の襟元を見ていた。
「今夜、もし家の人に何か言われても、自分で後ろを確かめようとしないでください」
それだけ言われた。
家へ戻るころには、会社員も馬鹿馬鹿しくなっていた。事故もない交差点で警察官が二人、通行人を眺めている。何かの訓練か、不審者の張り込みだったのだろうと思うことにした。
夜九時過ぎ、同居している家族が妙なことを言った。
「髪、どうしたの」
会社員は髪を触った。乱れてはいない。
家族は近寄ってこなかった。
「そこじゃない。後ろ」
首筋を指している。
会社員はスマートフォンのカメラを向けようとした。しかし昼間の警察官の言葉を思い出し、手を止めた。
代わりに、家族へ何が見えるのか尋ねた。
返事がなかった。
家族は会社員の首の後ろを見たまま、壁際まで下がった。
そして小さな声で、
「顔がある」
と言った。
髪の隙間から、額らしい丸みが見えるという。
人間の皮膚の上に何かが付着しているのではない。後頭部の内側から、もう一つの顔が押し出されようとしているように見えるのだという。
会社員が動くと、それは消えた。
止まると何もない。
もう一度、廊下をゆっくり歩いてみた。
一歩目では何も起きなかった。
二歩目も同じだった。
三歩目。
家族が息を呑んだ。
会社員の後頭部から、白いものが浮き上がっていた。
閉じた瞼。低い鼻。わずかに開いた口。
男とも女とも分からない、血の気のない顔だった。
髪も耳もない。ただ顔面だけが、頭蓋骨の後ろから押し出されるように浮かび、その目がゆっくり開いた。
会社員の身体は前を向いている。
顔だけが、後ろを見ていた。
家族は悲鳴を上げた。
会社員が振り返った瞬間、それは消えた。
交番へ連絡すると、昼間の二人が来た。
事情を聞いた警察官たちは驚かなかった。それが、かえって怖かったという。
廊下で再び歩いてほしいと言われた。
二人は昼間と同じように、廊下の両端へ分かれた。会社員を中央に立たせ、片方が正面から、もう片方が背後から見る。
三歩目。
背後の警察官が小さく息を吸った。
正面にいる警察官からは、会社員の顔しか見えない。しかし背後から見ている警察官には、もう一つの顔が見えていた。
今度は、先ほどよりも深く出ていた。
額だけではない。頬骨まで浮き上がり、濡れたような唇が開いている。その顔の目だけが、背後の警察官を見ていたという。
警察官は会社員を止めた。
顔はゆっくり沈んだ。
それからようやく、二人は事情を話した。
数日前から、あの交差点を巡回する警察官の間で妙な目撃が続いていた。
最初は老人だった。
交差点を歩いていた老人の後頭部に、知らない人間の顔が浮かんだ。
翌日は学生だった。
服装も体格もまるで違うのに、三歩目に現れた顔は同じだった。
左の目だけがわずかに垂れ、鼻梁が途中で曲がっている。唇の端が切れたように黒ずんでいる。その特徴まで一致していた。
だから、その日は二人で位置を変えながら通行人を見ていた。
錯覚なのか。
見る角度によるものなのか。
それを確かめるためだった。
事故記録も調べたという。
少なくとも確認できる範囲では、あの交差点でその顔に結びつく死亡事故は起きていなかった。近隣の行方不明者にも、似た特徴の人物はいなかった。
分かったのは一つだけだった。
顔が現れた人間を、そのまま家へ帰してはいけない。
会社員は警察官たちと交差点へ戻った。
夜の住宅街には、昼間より車が少なかった。二人はまた道の両側に分かれ、昼間と同じ位置へ立った。
会社員は、一度通った道を逆向きに歩いた。
一歩。
二歩。
三歩。
首の後ろが、氷を押し当てられたように冷えた。
同時に、正面の警察官の視線が会社員の肩越しへ移った。
背後にいる警察官も、同じ場所を見ていた。
会社員の後頭部から、顔が出ていた。
昼間よりはっきりしていた。
眼球まで見えていたという。
しかし今度は、四歩目を踏み出した瞬間、顔だけが会社員の頭から離れた。
皮膚が裂けたわけではない。
白い顔面だけが、濡れた紙を剥がすように空中へ残った。
会社員は振り返らなかった。
二人の警察官だけが、それを見た。
顔は道の中央にしばらく浮いていた。
やがて横を向き、道路脇の標識へ近づいた。
そして、灰色の標識の裏側へ、音もなく沈んだ。
その瞬間、会社員の首から冷たさが消えた。
標識の裏には、何も付いていなかった。
水滴も、汚れもない。
ところが翌朝。
巡回に来た警察官が異変を見つけた。
金属製の標識の裏側が、わずかに盛り上がっていた。
額。
瞼。
鼻。
唇。
人間の顔を裏側から押し当て、そのまま金属に浮き彫りにしたような形だった。
工具で押しても戻らなかった。表側には何の変形もなく、裏側だけに顔がある。
標識は後日、交換された。
会社員の後頭部には、それ以来、何も現れていない。
あの交差点で二人の警察官が向かい合って立つこともなくなったという。
ただ、取り外された標識だけは処分されていない。
倉庫へ運び込まれたとき、担当者が念のため顔の高さを測った。
昼間、通行人の後頭部に現れていたものと、ほぼ同じ大きさだった。
そして奇妙なことに、その盛り上がりを横から見ると、鼻も唇も外側へ出ている。
なのに指で触れると、
鼻の先だけが、金属の向こう側へ深く沈んでいる。
まるで今も、標識の中からこちらへ顔を出そうとしているように。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


