予約のない客

写真怪談

その寿司屋では、予約で席が埋まった日にだけ、入口のガラス戸へ手書きの紙を貼る。
「本日予約の方のみ」
店先には店で使う自転車が置かれ、後ろの荷台には大きな箱が括りつけられている。窓際には松ぼっくりが並び、その下には茶色い狸の置物が一体、通りを向いて座っていた。
昔からそこにあるものらしく、店の者も特に気に留めてはいなかった。

妙な客が現れるようになったのは、その紙を貼った夜だった。
七時を少し回り、予約客がほぼ揃ったころ、カウンターの中にいた店主が入口のほうを見た。ガラス戸の向こうに、五十代か六十代くらいの男が立っていた。
濃い色の上着を着て頭をやや下げており、顔の位置にはちょうど「本日予約の方のみ」の紙が重なっていたため、目鼻までは見えなかった。

予約客ならすぐ入ってくるだろうと思ったが、男は動かなかった。
店員が戸を開けると、そこには誰もいない。歩道には通行人が何人かいたが、店の前から立ち去ったような男はいなかった。
自転車も狸の置物も、さっきまでと同じ位置にあったため、その日は見間違いだろうということで済んだ。

十日ほどして、また予約だけで満席になった夜、同じ男が立っていた。
今度は店員も見た。男は入口の正面ではなく、自転車の後輪と窓のあいだ、狸の置物が置かれているすぐ前にいた。
外はまだ明るく、通行人の顔まで見分けられる時間だったのに、男だけは薄暗いところに立っているように色が沈み、黒っぽい上着の肩から上には濡れた布のような艶があった。

何より妙だったのは、狸が見えなかったことだった。
男の胴体に隠れている。つまり、どう見ても男はガラスの外に立っていた。
店員が入口へ向かったところで、通りを走る車の光が一瞬ガラスへ差した。その明るさが消れたとき、そこには自転車と狸しか残っていなかった。

それから、予約だけの夜に限って男を見る者が増えた。
時間は決まっていない。ただ一つ共通していたのは、その日の予約客が全員入店したあとに現れることだった。
満席になるまでは来ない。最後の客が席につき、注文が始まり、店の者が「今日はこれで全員だ」と思ったあと、いつの間にか男が外に立っている。

ある夜、事情を知らない手伝いの店員が、男を本物の客だと思って入口へ向かった。
戸を開けながら「ご予約のお客様ですか」と声をかけ、その店員だけは男の顔をまともに見た。
あとで聞かれても、顔立ちはうまく説明できなかったという。ただ、見た瞬間に「死んだ人だ」と思ったらしい。

怪我をしていたわけではない。血も流していない。目も鼻も口も普通の人間と同じ場所にあった。
それなのに、長い間水につけておいた紙のように、皮膚から生きている人間の張りだけが抜け落ちていた。
髪は額へ貼りつき、頬には細かな水滴が並んでいたが、その日は一日中晴れていた。

男は返事をしなかった。店員を見てもいなかった。
その視線は店員の肩を越え、満席の店内へ向いていた。店員が思わず半歩退いた次の瞬間には、男はいなくなっていた。
戸は開いたままで、通りから入った風に入口の紙だけがぱたぱたと鳴っていた。

その夜、閉店後に異変が見つかった。
窓際の狸の腹に、五本の細長い窪みができていた。人間が右手を置き、そのまま指先を食い込ませたような跡だったという。
泥や汚れではなく、触るとはっきり凹んでいた。

店主は長くその狸を置いていたが、そんな傷は見たことがなかった。
焼き物の表面には艶のある釉薬が掛かっている。それごと、まだ柔らかい粘土だったときに指を押し込んだように沈んでいる。
それなのに、釉薬にはひび一つ入っていなかった。

翌日、店主は狸を窓際から下げた。縁起物だから捨てる気にはならず、店の奥の棚へ移しただけだった。
それから二週間、男は現れなかった。
狸の置物に何かが憑いていたのかもしれない。そういう話で片づけられるなら、そのほうがよかった。

三週間目の金曜日、店はまた予約だけで満席になった。
最後の客が入ったあと、一人の店員が入口を見て動かなくなった。男がいた。
ただし、ガラス戸の外ではなく、店の中にいた。

入口を入ってすぐ、以前狸を置いていた窓際に、壁を背にして立っていた。
誰も戸を開けていない。濡れたような黒い上着も、額に貼りついた髪も同じだった。
両腕を身体の横へ垂らし、満席のカウンターを見ていた。店主にも見えたという。

数秒後、客の一人が箸を置いて「すみません」と声をかけた。
店主がそちらへ顔を向け、もう一度窓際を見ると、男はいなかった。
翌朝、店主は奥の棚から狸を戻した。元の場所へ置き、腹に残る五本の窪みを通り側へ向けた。それから男は、また外に立つようになった。

予約客が全員揃ったあと、自転車の後ろ、ガラス越しの狸の前に、頭を少し下げて何も言わず立っている。
店の者はもう戸を開けない。予約客から「外に人がいますよ」と言われても、「すぐいなくなりますから」とだけ答える。
狸も動かさなくなった。

腹の五本の窪みは、ずっと残っていた。
ただ、去年の暮れに店主が掃除をしていて、妙なことに気づいた。五本の跡が少し浅くなっていた。
壊れた焼き物が自然に元へ戻るはずはない。それでも数か月かけて、腹の表面は少しずつ滑らかになっていた。

代わりに、新しい窪みができていた。
場所は狸の背中だった。店内側を向いている背中に、同じ五本の跡がついていた。
今度は、後ろから人間が手を置いたような形だった。

その晩も店は予約で埋まっていた。
閉店して照明を落とす直前、店主は習慣のように入口を確かめたが、男は外にはいなかった。ガラス越しに見えるのは、自転車と松ぼっくりと夜の通りだけだった。
店主は安心しかけ、そのまま戸に鍵を掛けた。

そのとき、ガラスに近いところで狸の背中が見えた。
そのすぐ後ろに、黒い上着の裾があった。
外ではない。狸と同じ側だった。

店主は振り返らなかったという。

今でもその寿司屋では、満席の日になると入口に同じ紙を貼る。
「本日予約の方のみ」
そして閉店後、その紙を外す前に必ず確認することが一つある。

予約した客が全員帰ったあと、
店の中に、予約していない客が残っていないかどうか。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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