折り返しの内側

写真怪談

その集合住宅にはエレベーターがなかった。

四階までの吹き抜けを、金属製の階段が何度も折り返しながら昇っている。黒い梁、ガラスの手すり、一定の間隔で並ぶ黄色い照明。夜になると、階段だけが巨大な機械の内部のように浮かび上がった。

一階の階段下には、古い自転車が一台置かれていた。錆びたチェーン錠で支柱につながれ、前輪の空気は抜けている。管理会社の村瀬が赴任したときには、すでにそこにあった。

駐輪許可証には「三〇二」と書かれていた。

だが三〇二号室の住人は、自転車を持っていなかった。六年前に入居したときから階段下に置かれており、前の住人のものだと思っていたという。ところが管理記録を遡っても、その部屋で自転車を登録した者はいなかった。

撤去通知を貼っても、翌朝には剥がれていた。紙は床へ落ちるのではなく、細く折り畳まれ、自転車のチェーンと後輪の歯車の間に挟まっていた。

最初の異変が起きたのは、村瀬が夜間点検をしていたときだった。

午前一時四十三分。誰もいない四階の照明が点いた。続いて三階、二階、一階の順に、黄色い光が一つずつ灯っていく。人感センサーは通常、人の動きを追って隣接する照明だけを作動させる。

その夜の光は、上から下へ降りてきたあと、再び四階へ戻った。

一周するたび、自転車のペダルがわずかに動いた。後輪は錠で支柱に固定されている。タイヤは回らない。それでもチェーンだけが、歯車を一つぶん送られていた。

三周目の途中で照明は消えた。

村瀬が自転車へ近づくと、チェーンの隙間に銀色のものが挟まっていた。古い玄関用の鍵だった。頭の部分には「三〇二」と刻まれている。

管理室へ持ち帰って保管したが、その鍵は現在の三〇二号室には合わなかった。ほかの部屋にも使えない。ただ、鍵穴へ差し込んだときだけ、階段の照明が一斉に点いた。

翌週、四〇一号室の女性が管理会社へ電話をかけてきた。

深夜にごみを出し、一階から戻る途中で、自分の部屋を三階に見つけたという。部屋番号も表札も玄関マットも、四階にあるものと同じだった。上りすぎたのかと思ったが、踊り場の表示は確かに「3F」だった。

女性は試しに鍵を差し込んだ。

扉は開いた。

中は自分の部屋だった。脱ぎ捨てた部屋着も、飲みかけの水も、つけたままのテレビも元の位置にあった。ただ、ベランダの外には隣の建物ではなく、黄色い照明が並ぶ階段が見えたという。

女性はすぐに扉を閉めた。もう一度開けると、そこは普通の三階廊下だった。四階まで上り直すと、自分の部屋の扉は何事もなく残っていた。

その日から、女性の鍵に細い傷が現れた。

鍵の軸を一周する、継ぎ目のない円形の傷だった。毎晩少しずつ深くなり、一週間後には爪が引っかかるほどの溝になった。

八日目の朝、四〇一号室は無人になっていた。

玄関は内側から施錠され、靴も財布も携帯電話も残っていた。沸かしたばかりの湯がケトルの中で温かく、テレビには前夜の番組が一時停止されたまま映っていた。

警察が家族へ連絡したが、家族はそんな女性を知らないと答えた。勤務先にも在籍記録がなかった。管理会社の契約データからも名前が消え、四〇一号室は三年前から空室ということになっていた。

村瀬だけが、女性の顔と声を覚えていた。

その夜、階段の照明が上から順に点いた。

一周が終わったあと、自転車のチェーンに新しい鍵が挟まっていた。頭には「四〇一」と刻まれていた。軸には、深い円形の溝があった。

村瀬は翌日、自転車のチェーンの一箇所へ赤い塗料をつけた。ペダルと後輪にも線を引き、少しでも動けば分かるようにした。

午前一時四十三分、照明が循環を始めた。

ペダルも後輪も動かなかった。赤い線は同じ位置にある。それなのに照明が一周するたび、塗料の付いたチェーンの駒だけが、一つずつ歯車の奥へ移っていった。

チェーンが回っているのではなかった。

赤い駒の前に、同じ形の駒が一つずつ増えていた。

村瀬は自転車を撤去することにした。チェーン錠を切り、ハンドルを持って階段下から引き出した。その瞬間、建物中の照明が消えた。

非常灯さえ点かなかった。

暗闇の中で、村瀬のポケットが急に重くなった。鍵束が何かに引かれ、布越しに階段の方向へ持ち上がっていく。両手で押さえたとき、すべての照明が一斉に戻った。

村瀬は四階の踊り場に立っていた。

一階にいたはずだった。自転車を押していた手には何もなく、切ったチェーン錠だけが握られている。

正面には、見慣れた扉があった。

集合住宅の部屋ではない。村瀬が暮らしている、自宅マンションの玄関扉だった。小さな傷も、郵便受けに貼った宅配業者のシールも一致している。

階段を一つ降りると、次の踊り場にも同じ扉があった。その下にも、さらに下にも、村瀬の自宅が続いていた。

どの扉の覗き穴にも、階段を降りる村瀬自身の背中が映っていた。

一つ下の踊り場を歩く背中。さらに下で手すりを握る背中。その下では、扉の前に立ち、鍵を差し込もうとしている背中。

村瀬は自分の鍵を取り出した。

軸には、いつの間にか細い円形の傷が刻まれていた。

鍵を中央の吹き抜けへ投げ捨てた。鍵は黄色い光を反射しながら落ちていった。階段下の自転車を通り過ぎ、暗闇へ消える。

数秒後、頭上から同じ鍵が落ちてきた。

鍵は再び吹き抜けを落下し、また上から現れた。三度目には表面が黒ずみ、四度目には軸の傷が深くなった。五度目には、鍵の頭へ見覚えのない数字が刻まれていた。

村瀬の自宅の部屋番号だった。

階段下では、撤去したはずの自転車が元の位置に戻っていた。後輪のチェーンには無数の鍵が通されている。三〇二。四〇一。読めないほど摩耗した数字。住人のいる部屋も、空室も、管理室もあった。

チェーンが一駒だけ進んだ。

すべての扉の向こうで、同時に鍵が回る気配がした。

村瀬は扉を開けず、ただ階段を降り続けた。何度折り返しても一階には着かなかった。自宅の扉と自転車と黄色い照明だけが、同じ配置で繰り返された。

やがて一つの踊り場で、扉が半開きになっていた。

隙間から朝の光が見えた。村瀬が身体を滑り込ませると、集合住宅の正面玄関前へ転がり出た。

腕時計は午前一時四十四分を示していた。

四十秒ほどしか経っていなかった。

階段下に自転車はなかった。管理記録にも駐輪写真にも、最初から存在しなかったことになっていた。三〇二と四〇一の鍵も管理室から消えていた。

村瀬はその月で仕事を辞めた。

それから半年後、自宅の玄関を開けたとき、一度だけ黄色い照明の階段が見えた。すぐに閉じて開け直すと、いつもの廊下へ戻っていた。

敷居の上には、古い鍵が一本落ちていた。

頭には村瀬の部屋番号が刻まれていた。鍵屋に調べてもらうと、村瀬が日常的に使っている鍵と、傷の位置から金属の成分まで完全に一致した。

ただし、複製されたものではなかった。

二本の鍵は、切断面も内部の気泡も同じだった。一つの金属から作られた同じ鍵が、同時に二本存在しているとしか考えられないという。

村瀬は拾った鍵を透明なケースへ入れ、蓋を接着した。

ケースの中で鍵が動いたことはない。それでも毎晩、軸を一周する傷だけが深くなっている。昨日、その溝はとうとう鍵の中心まで達した。

午前一時四十三分、寝室の扉の下から黄色い光が差し込んだ。

光は右から左へゆっくり移動し、いったん消えたあと、また右側から現れた。遠ざかっているのではない。何度も同じ場所を折り返している。

村瀬は扉を開けていない。

ただ、透明なケースの中では、鍵の歯が一つずつ増えている。

階段の段数と、同じ速さで。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

この怪談の怖さを評価する

星を押して、怖さを5段階で評価してください。

平均評価 0 / 5. 読者の怖さ評価 0

まだ評価はありません。最初の評価をお願いします。

 

タイトルとURLをコピーしました