都心の大きなドーム球場で、プロ野球のナイトゲームが終わった直後だった。
駅へ向かう高架下には、オレンジ色のタオルやユニフォームを身につけた客が何百人も流れ込み、汗の匂いと、潰れた応援歌と、勝ったのか負けたのか分からない叫び声が、鉄骨と柱の間で何度も跳ね返っていた。
私はその駅前のビルで夜間警備をしている。試合のある日は、閉館後の巡回よりも、裏口のシャッターを下ろすタイミングの方が厄介だった。人の波が途切れない。歩道橋の階段から吐き出された客が、そのまま横断歩道へ広がり、信号が青になるたび、車道の端まで押し寄せる。
その夜、妙だったのは、声の戻り方だった。
普通なら歓声は高架にぶつかって、少し遅れて反響する。けれどその日は、反響が先に来た。
誰かが口を開く前に、頭上の鉄骨から「おお」と低い声が落ちてくる。少し遅れて、人混みの中の男が同じ形に口を開ける。笑い声もそうだった。女の人が肩を叩かれて笑う、その一瞬前に、高架の奥で乾いた笑いだけが先に弾ける。
録音でも流しているのかと思った。
だが、高架下にスピーカーなどない。駅前の案内放送は人のざわめきに埋もれて、ほとんど聞こえない。なのに、頭の上だけが妙にはっきりしていた。
交差点の向こうに、小さな「3」の表示が光っている。その近くを人の波が通るたび、声だけが少し早くなる。
最初にそれに気づいたのは、子どもの声だった。
母親に手を引かれた男の子が、片手に持ったオレンジ色のタオルを振り上げた。まだ何も言っていない。けれど高架の梁のあたりから、子どもの甲高い歓声が先に落ちてきた。
次の瞬間、男の子は口を開けた。
声は出なかった。
母親は気づいていないようだった。子ども自身も、ただ騒ぎすぎて喉がかれたのだと思ったのか、何度か口をぱくぱくさせてから、首をかしげただけだった。
そのすぐ後ろで、別の男も同じように口を開けた。声は出ない。だが頭上から、その男の声だけが降ってくる。笑い声。悪態。応援歌の続きを歌う声。本人の喉から出るはずだったものが、高架の裏側に先回りして、そこに貼りついているようだった。
人混みは止まらなかった。
信号が青になり、群衆が車道を渡り始めた。私の前を通った客たちは、みんな顔を赤くして、汗をかき、肩をぶつけながら駅へ向かっていく。けれど「3」の表示の下を通った人だけ、口元の動きと声が合っていなかった。
少し先で笑う声が、後ろから聞こえる。
後ろで叫ぶ声が、頭上から落ちてくる。
誰かが立ち止まったわけではない。誰かが消えたわけでもない。ただ、人の声だけが、身体より先に駅へ行くことをやめていた。
私は裏口の内側から、しばらくその様子を見ていた。すると高架の奥、太い柱と鉄骨が重なった暗がりに、白いものがいくつも浮いているのに気づいた。
湯気のようだった。
人の息が冷たい夜に白くなる、あの感じに似ている。だがその日は蒸し暑く、誰の息も白くなどならない。白いものは頭上の梁の裏にだけ薄く残り、ひとつひとつが丸く開いた口の形をしていた。
声だけが、そこに干されていた。
そう思った瞬間、高架の下が一気に静かになった。
目の前にはまだ何百人もいる。タオルを振る人、スマートフォンを見る人、駅へ急ぐ人、横断歩道からはみ出して笑っている人。なのに音がない。車道を踏む靴音も、信号機の電子音も、誰かの咳払いも、全部が抜け落ちた。
代わりに、頭上からだけ歓声がした。
それはもう反響ではなかった。人の口から出た声でもなかった。高架そのものが、試合後の群衆をまねているような音だった。
私は思わず耳を押さえた。
その時、「3」の表示が一度だけ強く光った。
横断歩道の真ん中で、客の流れがわずかに割れた。そこに、誰もいない空間ができていた。人ひとり分の幅だった。けれど周りの客は、その空間を避けるように歩いている。肩が触れそうになっても、そこだけには入らない。
空いているのに、空いていない。
その空間から、声がした。
大勢の声ではない。ひとり分の声だった。年齢も性別も分からない。応援歌の一節を歌おうとして、最初の音だけで切れている。何度も、何度も、同じ出だしだけが高架の腹で擦れていた。
やがて信号が赤になった。
人の流れが途切れたあと、車道には紙くずと、踏まれたタオルの糸くずと、汗の匂いだけが残った。さっきまで白く浮いていた口の形も消えていた。
ただ、「3」の表示の真下のアスファルトだけが濡れていた。
雨は降っていない。誰かが飲み物をこぼした様子もない。私は懐中電灯で照らした。濡れた跡は丸く、ところどころ小さく欠けていた。上から見ると、何十もの開いた口が、重なって潰れたような形をしていた。
翌朝、清掃員がそこを水で流した。
跡は薄くなったが、完全には消えなかった。アスファルトの黒さがそこだけ少し濃く、昼になっても乾かない。ビルの入口から見ると、人の波が押し寄せていた場所ではなく、人の声だけが溜まっていた場所に見えた。
それ以来、試合のある夜には、私は「3」の表示の下をなるべく見ないようにしている。
それでも、人混みが駅へ向かう時間になると、頭上から先に歓声が落ちてくることがある。
そして翌朝、高架下の濡れ跡が少し広がっている。
誰かがあそこで声を落としていくのだと思う。
声だけなら、まだいい。
このごろはまれに、口を開ける前の笑い声の中に、足音が混じる。
まだ誰も渡っていない横断歩道を、何百人もの靴底が、こちらへ向かってくる音がする。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


