彼が異変に気づいたのは、夜明け前だった。
隣のコンクリートの建物には、細い外階段がついている。下は草の伸びた庭で、階段の途中には小さな踊り場があり、上の窓にはいつも白く鈍い光が残っていた。使っている人を見たことはない。昼間も夜も、そこだけ生活の途中で止まったように静かだった。
その朝、ベランダへ出ると、庭も手すりも露で湿っているのに、外階段の一段目だけが乾いていた。
乾いている、というより、湿り気を抜かれたようだった。踏み面の中央に、靴底ほどの四角い乾きがあり、縁だけが灰色に濃く残っている。誰かがそこに立ったのなら、足跡は濡れるはずだ。けれどそこは逆に、周囲の露を吸い取って白くざらついていた。
次の朝には、乾いた四角は二段目に移っていた。
一段目は濡れている。二段目だけが乾いている。三日目は三段目。四日目には踊り場の手前まで来ていた。彼は気味が悪くなって、夜中に一度だけ窓から見張った。けれど階段には誰も現れなかった。草は動かず、窓の明かりも変わらない。
ただ、手すりの下側だけが、ゆっくり曇っていた。
上ではない。人が握る位置ではなく、手すりの腹の、下を向いた面だ。そこに白い息を吹きかけたような曇りが、下から上へ伸びていく。曇りの中には、指の形ではなく、指の背のような丸みがいくつも並んでいた。手のひらで掴むのではなく、下から甲を押し当てて這い上がるものの跡だった。
翌朝、彼は階段の下を見に行った。
庭の草は膝のあたりまで伸びていた。だが階段の真下だけ、草の先がみんな同じ向きに倒れている。上から踏まれたのではない。地面のほうから何かが起き上がり、葉の裏をなでていったように、草は裏返りながら乾いていた。触ると、ひどく温かい。朝の冷えた土の中で、そこだけ人肌に近かった。
彼はその場を離れようとして、黒い下窓を見た。
窓の内側に結露がついていた。建物の中に暖房でも入っているのだろうと思ったが、結露は普通と違っていた。ガラス全面ではなく、縦に細い一本だけが乾いている。誰かが内側から顔を近づけ、そこだけ息を吸い込んだあとのような幅だった。
その日の夜、彼は自分の部屋の玄関に、灰色の粉が落ちているのを見つけた。
靴の下ではない。玄関框の側面、床から少し浮いた位置に、横向きの線として付着している。指でこすると、ざらざらしたコンクリートの粉だった。しかも粉の中に、ごく細い錆の粒が混じっていた。隣の外階段の手すりと同じ、古い鉄の匂いがした。
翌朝、外階段の乾きは踊り場を越えていた。
彼の部屋は、その階段と向かい合う緑の建物の二階にある。ベランダに出ると、向かいの踊り場の手すりに、白い曇りが残っていた。そこからまっすぐ、こちらのベランダの手すりへ、空中を渡ったみたいに同じ曇りが続いていた。
彼は見なかったことにした。
昼になれば消える。そう思った。実際、日が上がる頃には、手すりの曇りも、玄関の粉も目立たなくなった。けれど消えたのではない。乾いただけだった。夕方、帰宅して靴を脱いだ時、靴下の甲に細い灰色の線がついていた。足の裏ではなく、甲に。まるで誰かが彼の足を下から撫で、その位置を覚えていったように。
それから彼は、夜明け前に目が覚めるようになった。
目覚ましではない。寒さでもない。足の甲が、先に起きる。布団の中で、そこだけじんわり温かくなる。自分の体温ではない。金属に押し当てたあとのような、鈍い温かさだった。
ある朝、彼はとうとう、隣の外階段ではなく、自分の部屋の中を見た。
廊下に、乾いた四角があった。
夜中に拭いた覚えもないのに、床の一部だけが妙に白く、ざらついていた。形は靴底より少し小さい。そこから玄関へ、次の四角が続いている。さらにその先は、閉めたはずのベランダの窓の手前で止まっていた。
窓ガラスには、外側からではなく内側から曇りがついていた。
その曇りの下半分だけが乾いている。人が立つ高さではない。もっと低い。床から、ちょうど階段の一段ぶんずつ上がった高さに、白い曇りと乾いた跡が交互に並んでいた。
彼はその部屋を出た。
今は別の場所に住んでいるが、引っ越しの時にひとつだけ持ってこられなかったものがあるという。玄関に置いていた古いスリッパだ。荷造りの最後までそこにあったのに、退去の立ち会いの時にはなくなっていた。
その代わり、隣の外階段の最上段に、片方だけ置かれていたそうだ。
濡れてはいなかった。
ひどく乾いていて、甲の部分だけが、誰かの手すりみたいに灰色に温まっていたという。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

