その店先の丸テーブルには、いつも情報が多すぎた。
黄色い期間限定のパスタ看板、手書きの黒板メニュー、支払い用のQRコード、スマホ充電の案内。昼どきになると、客は料理より先に、どれを見ればいいのか分からなくなる。テーブルの中央には黒い充電レンタルの箱が置かれていて、上には縞の布と小さな金属皿が載せられていた。充電器なのに、まるで熱い鍋でも休ませているようだった。
あの日、私のスマホは四パーセントしかなかった。昼休みに支払いを済ませようとして画面を開いた瞬間、残量表示が赤くなり、アプリが落ちた。仕方なく店先の箱に置いて、レンタルの手続きをしようとした。
けれど、ケーブルを挿す前に、充電が始まった。
画面の端の赤い電池が、すっと白くなった。五パーセント、十二パーセント、三十一パーセント。音も振動もない。充電中の表示もない。ただ数字だけが、息を吸うように増えていく。
おかしいと思って手を伸ばしたとき、テーブルの上のQRコードが一枚、ぺこりと内側へ反った。風はない。透明なカード立ての中で、紙だけが縮むように丸まり、黒い四角がいくつか剥がれて見えた。剥がれたはずの黒い点は落ちなかった。代わりに、私のスマホの画面の縁に、細かい煤のように浮いた。
その時点で、残量は百パーセントになっていた。
私は怖くなってスマホを持ち上げた。軽かった。さっきまでの機械の重さがない。中身だけ抜かれた模型みたいに頼りなく、指で握ると、画面の奥がわずかにたわんだ。
店員に言うと、彼は充電箱の上の金属皿を少しずらし、縞の布をかけ直した。
「そこ、直に置かないほうがいいです」
それだけ言って、彼は奥へ戻った。
その夜から、スマホの充電は減らなくなった。動画を見ても、電話をしても、寝落ちして朝まで点けっぱなしにしても、表示は百のままだった。便利なはずなのに、私は次第にそれが怖くなった。電池が減らないかわりに、別のものが減っている気がしたからだ。
最初に消えたのは、昼に何を食べたかだった。
同僚に「今日のパスタどうだった」と聞かれて、私は答えられなかった。店に行ったことは覚えている。黄色い看板も、黒板メニューも、テーブルの上の白い紙片も覚えている。けれど、皿の中だけが思い出せない。味も、匂いも、フォークを持った感触もない。記憶の真ん中に、充電済みの空白だけが残っていた。
次の日、もう一度店の前を通った。充電箱はまだあった。上の布は昨日より深く掛けられ、小さな金属皿が重しのように置かれている。テーブルの端には、決済用のQRコードがいくつも並んでいた。
ただ、一枚だけ、黒い四角が足りなかった。
その欠け方に見覚えがあった。私のスマホの画面の縁に浮いた煤と同じ形だった。恐る恐る画面を点けると、ロック画面の隅に黒い点が増えていた。点はただ散っているのではなく、QRコードのような配列を作りかけていた。
私はその場から離れようとした。だが、店の黒板メニューの文字が目に入った。
ランチメニューの横に、昨日はなかった一行がある。
「充電済み 一名」
チョークの字ではなかった。黒板の表面がそこだけ削れて、内側の白い粉が浮き上がっている。指でこすれば消えそうなのに、誰も消さない。店員も客も、その行だけ見えていないように通り過ぎていく。
私はスマホをしまい、歩き出した。
ポケットの中で、画面が勝手に点いた。
カメラだった。外側のレンズではない。内側のカメラが開いていた。画面には私の顔ではなく、あの丸テーブルが映っている。充電箱、縞の布、金属皿、QRコード、黄色い看板。ちょうど今、私が背を向けたはずの店先を、真上から見下ろしている映像だった。
テーブルの中央で、布がゆっくり膨らんだ。
その下から、黒い四角が一つずつ押し出されてくる。虫の卵のように小さく、でも形は完全な正方形だった。四角は布の縫い目に沿って並び、金属皿の縁を避け、充電箱の側面へ移っていく。やがて箱の正面に、見たことのないQRコードができあがった。
画面の中でだけ、店員がそれを読み取った。
次の瞬間、私のスマホに白い画面が出た。
「残量を返却してください」
文字の下に、支払いボタンのようなものがある。金額は表示されていない。代わりに、昼の記憶が一つずつ並んでいた。水の入ったグラス。フォークの銀色。最初の一口。隣の客の笑い声。自分が「おいしい」と言ったかもしれない口の動き。
私は押さなかった。
それからスマホは、まだ百パーセントのままだ。
ただ、何かを充電しようとするたび、少しずつ忘れる。昨日は、家の鍵をどこに置いたか分からなくなった。今朝は、自分の部屋の照明のスイッチの位置を一瞬思い出せなかった。
先週、店先から充電箱が撤去された。
けれど丸テーブルには、四角い跡が残っている。焦げでも汚れでもない。木目の内側から黒い正方形が浮き、きれいなQRコードの形になっている。店の人が何度拭いても消えないらしい。
試しに別の客がスマホを向けたが、何も読み込まなかったという。
私のスマホだけは違った。
画面を向けると、すぐに支払い画面が開く。残量は百パーセント。金額は空欄。支払い先の名前もない。
ただ、備考欄に毎回、同じ文字が出る。
「未体験」
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

