都心の古いビルには、用途の分からない建物がある。
入口には郵便受けも社名板もなく、マンションにしては生活の気配が薄い。かといって雑居ビルと呼ぶには、上階の窓に干されたタオルや、夜だけ灯る台所らしい明かりがある。知人が管理会社の手伝いをしていた頃、そういうビルの一階にある駐輪場を、月に一度だけ見に行っていた。
そこは白いタイルの壁と、茶色い古い外壁に挟まれた半地下のような場所だった。自転車が数台、電動バイクが一台、奥にはタイヤの積まれた車が一台。右端には赤い自転車があり、いつ見ても同じ角度で停まっている。誰が使っているのか分からないが、籠の中は空で、サドルだけ妙に新しかった。
最初の異変は、床のタイルだった。
ある朝、知人が水道メーターを確認して戻ろうとすると、駐輪場の中央に黒い線が一本増えていた。タイヤ跡にしては細く、汚れにしてはまっすぐすぎる。タイルの目地を無視して、奥の白い自転車から手前の何もない空間へ、誰かが定規で引いたように伸びていた。
その線の先には、何もなかった。
翌月に行くと、線は消えていた。代わりに、床の同じあたりに小さな×印があった。靴底の汚れでも、養生テープの跡でもない。タイルそのものが、そこだけ薄く擦り減って黒ずんでいる。管理会社に聞いても、工事の予定はないという。
知人はそれを、誰かが勝手に印をつけたのだと思った。古いビルでは、住人同士のトラブルを避けるために、自転車の置き場所を暗黙で決めていることがある。だからその×も、ここに停めるな、という合図なのだろうと。
ただ、不思議なのは、×印の場所に自転車を置ける隙間がないことだった。
周りには何台も停まっているのに、その一点だけ、いつもぽっかり空いている。誰かが避けているのではなく、そこだけ最初から何も置けないように、ハンドルや前輪が少しずつ外へ逃げている。赤い自転車も、電動バイクも、奥の白い自転車も、その×を中心に、わずかに身を引いていた。
三度目に行ったとき、知人は確かめるつもりで、赤い自転車を少しだけ動かした。
スタンドを上げ、前輪を半歩ぶん内側へ向ける。誰の物か分からないので、倒さないよう気をつけた。赤い自転車は軽かった。子ども用に近い車体なのに、触れた瞬間だけ、古い鉄の階段を引きずるような重い音がした。
その音は、建物の奥から返ってきた。
一回だけではない。
がらん、がらん、がらん、と、見えない自転車のスタンドが、いくつも同時に上がる音がした。駐輪場には誰もいない。エレベーターの扉も閉まっている。奥の車のカバーも動かない。
知人が赤い自転車から手を離すと、音は止まった。
そして床を見ると、×印がひとつ増えていた。
新しい×は、赤い自転車の前輪のすぐ下にあった。さっきまでなかった。タイルの表面が、今しがた何かに焼かれたように黒く、細く焦げている。焦げ臭さはない。ただ、指で触れると、タイルがひどく冷たかったという。
その日から、知人は駐輪場に入るたび、自転車の数を数えるようになった。
黒い電動バイクが一台。奥に赤茶色の自転車が一台。黒い籠付きが一台。白い自転車が一台。赤い自転車が一台。車が一台。
数は合っている。
けれど、帰ろうとして入口を振り返ると、一台多い気がする。形として見えるわけではない。空いている中央の床に、ハンドルの幅だけ空気が曲がっている。そこを見ていると、目が勝手に前輪、フレーム、サドルの位置を補ってしまう。
誰かの自転車が、そこに停まっている。
ただ、見えない。
知人は管理会社の社員にそれを話した。笑われると思ったが、社員はすぐ黙った。そのビルでは昔、一階に小さな輸入雑貨の店が入っていたらしい。店主は夜中に自転車で仕入れに出る人で、ある年の暮れ、配達用の荷物ごと行方が分からなくなった。店はそのまま閉じ、住人たちがいつの間にか一階を駐輪場として使うようになった。
見つかったのは、人ではなく自転車だけだったという。
ビルの中ではない。区の保管所でもない。数年後、解体予定だった隣の建物の壁の中から、前輪だけが出てきた。フレームもサドルも荷台もなく、前輪だけが、壁の中でまっすぐ立っていた。錆びていないどころか、空気が入っていたそうだ。
社員はそれ以上話さなかった。
それから知人は、駐輪場の中央に近づかないようにした。点検も入口から見るだけで済ませた。だがある日、どうしても奥の配電盤を確認する必要があり、床の×印を避けながら歩いた。
そのとき、赤い自転車の籠の中に、白いものが入っているのに気づいた。
最初は紙かと思った。拾い上げると、それはタイルの欠片だった。小指の爪ほどの大きさで、裏側に黒い線がついている。床を見ても、どこも割れていない。割れていないのに、欠片だけがある。
籠の底には、ほかにも何枚か入っていた。
どれも同じタイルの欠片で、黒い線の一部がついている。並べると、それは×印ではなかった。自転車の駐輪番号のような、細い数字になった。
0ではない。8でもない。
二桁の、見慣れない番号だった。
そのビルの駐輪場には番号などない。そもそも区画もない。誰がどこに停めるのかも曖昧なまま、古い建物の一階に、自転車だけが寄せ集められている。
知人は欠片を籠へ戻し、その日は何も触らず帰った。
一週間後、別件で近くを通ったとき、ビルの前に赤い自転車が出ていた。倒れていたわけではない。誰かが乗る直前のように、スタンドが上がっていて、ハンドルが道路のほうを向いていた。
だが、ペダルがなかった。
左右ともきれいに外れていた。盗難にしては不自然だった。チェーンは張ったまま、クランクだけが動く。風もないのに、前輪がゆっくり半回転した。
知人は中を覗いた。
駐輪場の中央、いつも空いている場所に、自転車の影があった。車体は見えない。けれど床には、確かに影だけが落ちている。ハンドル、前輪、細いフレーム、荷台。その影の下に、黒い×印が何重にも重なっていた。
奥の白い自転車が、少しだけ傾いた。
倒れたのではない。誰かが横を通るのを避けるみたいに、壁へ身を寄せたのだという。黒い電動バイクも、赤茶色の自転車も、みな同じように、影のために道を空けていた。
その瞬間、駐輪場の奥から、がらん、と音がした。
見えないスタンドが上がる音だった。
影は、床の上をゆっくり前へ進んだ。タイヤが転がるはずのない場所に、細い黒線が二本残っていく。線は入口まで来て、赤い自転車の脇で止まった。
赤い自転車の籠の中で、白いタイルの欠片が鳴った。
一枚、二枚、三枚。
誰かが中から数えるように、かち、かち、と重なっていく。
知人は逃げた。
それ以来、そのビルの前を通っていない。ただ、管理会社の人から聞いた話では、駐輪場は今も使われているらしい。住人もテナントも変わったが、自転車だけは減らない。撤去しても、翌朝には何かが一台ぶん増えたように、全体の間隔が詰まっているという。
赤い自転車は、まだ右端にある。
籠には何も入っていない。けれど雨の日の翌朝だけ、底に白い粉が溜まる。タイルを削ったような細かい粉で、指でならすと、必ず同じ形が浮かび上がる。
自転車の停め方を示す、古い番号。
そしてその番号の下には、いつも小さく×がついている。
その×印の場所には、今も誰も停めない。
停められないのではない。
そこはもう、埋まっている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


