赤ホッピーの隣席

晩酌怪談

その居酒屋へ行くのは、五年ぶりくらいだった。

以前は週に二、三回は通っていた店で、仕事帰りに一人で飲むこともあれば、知人と待ち合わせることもあった。狭い店内にはいつも客がいて、カウンターの奥からは笑い声や怒鳴り声が聞こえていた。特別に料理がうまいというわけではない。ただ、妙に居心地のいい店だった。

久しぶりに思い出したのは、赤ホッピーが飲みたくなったからだ。黒や白なら置いている店も多いが、赤は意外と見つからない。そういえば、あの店には昔からあったはずだと思い、少し遠回りして立ち寄ることにした。

引き戸を開けると、店内は驚くほど静かだった。以前なら満席になっていた時間帯なのに、客は奥のテーブルに一人いるだけ。カウンターには誰もいない。壁の板張りも、調味料の入った白い籠も、昔とほとんど変わっていなかったが、店がずいぶん広くなったように感じた。

店主も年を取っていた。こちらの顔を覚えていたのか、軽く会釈して「いらっしゃい」と言った。赤ホッピーがあるか尋ねると、まだ置いているという。ついでに豆腐入りのもつ煮込みを頼んだ。昔からよく注文していた組み合わせだ。

氷の入ったグラスと、赤いラベルの瓶が運ばれてきた。少し遅れて、黒い器に入ったもつ煮込みが置かれる。大きく切った豆腐に七味が散らされ、刻み葱が汁の表面に浮いている。白いレンゲも、昔と同じものだった。

ホッピーをグラスに注いだとき、隣の席から小さな音がした。

ぎしっ。

誰かが椅子に座り直したような音だった。反射的に横を見たが、そこには誰もいない。古い店なので、床板が鳴ったのだろうと思った。しかし、グラスを口へ運んだところで、もう一度、同じ音が聞こえた。

今度は、誰かが喉を鳴らす音も混じっていた。

ごくん。

私がホッピーを飲み下した、ほんの一拍あとだった。

しばらくグラスを持ったまま様子をうかがったが、何も起きなかった。奥の客は黙ってスマートフォンを見ており、店主は厨房で洗い物をしている。テレビはついていたものの、音量が小さく、出演者の話す声もほとんど聞き取れなかった。

もつ煮込みをひと口食べた。柔らかく煮えたもつの脂が舌に残る。豆腐を崩して汁に浸し、もう一度ホッピーを飲む。

ごくん。

また、隣から聞こえた。

今度は確かに、人間が飲み物を飲み込む音だった。しかも、かなり近い。自分の耳のすぐ横に、誰かの喉があるような距離だった。

気味が悪くなり、隣の椅子から少し離れるように座り直した。すると、カウンターの向こうにいた店主が、こちらを見た。

何か言いかけたようだったが、結局、何も言わずに目を伏せた。

その顔が妙に気になった。

以前、このカウンターの隅には、いつも同じ男性が座っていた。年齢は六十代くらいだったと思う。灰色の作業着を着て、決まってホッピーともつ煮込みを頼む人だった。誰かと話すことは少なく、酒が進むと顎を少し突き出して、ゆっくり飲み込む癖があった。

確か、赤ホッピーを好んで飲んでいた。

そんなことを思い出しながらグラスを置いたとき、隣の椅子の座面がゆっくり沈んだ。

革張りの座面が、人間の尻の形にへこんでいく。誰も座っていないのに、中央が深く沈み、両端が少し持ち上がった。続いて、椅子の背もたれがわずかに後ろへ傾いた。

私は動けなくなった。

厨房では相変わらず水の流れる音がしていた。店主の背中が見える。助けを呼ぼうとしたが、声が出なかった。

隣の空間が、ぼんやりと暗くなっていった。

最初に見えたのは、肘だった。

灰色の布に包まれた肘が、カウンターの縁に載っている。その先に、節の太い指が五本あった。爪は黒ずみ、指先の皮膚が水を吸ったように膨れている。腕の付け根を目で追うと、肩があり、そこから首と頭が浮かび上がった。

男が座っていた。

かつて、この店でよく見かけた常連だった。

ただし、顔がひどく変わっていた。頬は落ち窪み、皮膚には灰色の斑点が広がっている。唇だけが不自然に厚く膨らみ、口の両端から黒っぽい液体が滲んでいた。目は開いていたが、焦点が合っていない。眼球の表面に薄い膜が張り、照明を受けてもほとんど光らなかった。

その男が、私のグラスを見ていた。

顎が動いた。

ごくん。

飲み込む音がした。

私は思わずグラスを手で覆った。男の口はゆっくり開き、歯の間から糸のようなものが垂れ下がった。唾液なのか、腐った肉の繊維なのか分からない。口の奥には黒い空洞が見え、そこだけが妙に深かった。

男は私のほうへ身体を傾けた。

椅子の脚が床を擦り、きい、と嫌な音を立てた。

その瞬間、厨房から店主が出てきた。

「お客さん、もうお勘定にしましょうか」

まだ半分も飲んでいなかった。もつ煮込みもほとんど残っている。それなのに、店主は私の返事を待たず、カウンターの端から伝票を取った。

私の隣には、男が座ったままだった。

店主には見えているのか。

そのことを尋ねようとしたが、店主は決して隣を見なかった。伝票を手にしたまま、視線を私の胸元あたりに固定している。顔色が悪かった。小銭を受け取る手も、わずかに震えていた。

財布をしまおうとしたとき、隣の男が動いた。

ゆっくりと首を伸ばし、私のグラスへ顔を近づけた。鼻先がグラスの縁に触れた。膨れた唇が、透明なガラスに押しつけられる。

男の舌が見えた。

黒紫色に変色した舌が、グラスの外側を短く這った。男はそのまま、飲み口を吸うように口を動かした。グラスの中の液体がわずかに揺れ、氷がひとつ、音を立てて沈んだ。

私は椅子を蹴るようにして立ち上がった。

男の顔が、こちらへ向いた。

開ききった口の奥から、何か白いものが覗いていた。最初は歯だと思った。しかし違った。小さな白い破片がいくつも重なっている。よく見ると、それは人間の爪だった。何枚もの爪が、喉の奥に貼りついていた。

男が大きく顎を開くと、その爪が一斉に震えた。

音はしなかった。

ただ、私はその瞬間、男が何を飲み込んできたのか、考えてしまった。

店主が私の腕を掴んだ。

「出てください」

小さな声だった。

「振り返らないで」

私はそのまま店を飛び出した。

外へ出ると、夜の街には普通に人が歩いていた。自転車が通り過ぎ、向かいの店から笑い声が聞こえてくる。ほんの数メートル先には、いつもどおりの生活があった。

しばらく歩いてから、ようやく呼吸が落ち着いた。

それでも、喉の奥に妙な違和感が残っていた。

何かを飲み込んだあと、まだ喉に引っ掛かっているような感覚だった。水を買って飲んでみたが、消えなかった。

その晩、帰宅して歯を磨いていると、洗面台に小さなものが落ちた。

白く、薄い、三日月形の破片だった。

爪だった。

自分の爪ではない。手足を確かめたが、欠けたところはなかった。しかも、その爪は表面がふやけ、内側に黒い汚れが染み込んでいた。指で触れると、もつ煮込みに似た脂の匂いがした。

翌朝、ゴミ箱に捨てたはずの爪が、洗面台に戻っていた。

その次の日には二枚になった。

三日目には、四枚。

私は病院へ行った。喉や口の中を診てもらったが、異常はないと言われた。爪についても説明できなかった。ただ、医師から「最近、食べ物を飲み込みにくくなっていませんか」と聞かれたとき、背筋が冷たくなった。

実際、あの日から食事が喉を通りにくくなっていた。

特に、温かい汁物が駄目だった。

何かを飲み込もうとすると、喉の奥で、別の何かが先に動く。自分が飲み込むよりも少し早く、もうひとつの喉が収縮するような感覚がある。

ごくん。

自分の喉から、二度、音がする。

その後、知人を通じて居酒屋の店主から話を聞くことができた。

あの灰色の作業着の常連は、三年ほど前に亡くなっていたという。店の中ではなく、自宅で倒れて発見されたそうだ。身寄りがほとんどなく、亡くなってからしばらく経っていたらしい。

それ以来、店では奇妙なことが続いていた。

閉店後、空のグラスの内側に、誰かが口をつけたような跡が残る。片づけたはずの椅子が、翌朝にはカウンターへ向き直っている。夜中に店内を覗くと、灰色の作業着を着た男が、一人で酒を飲んでいることもあった。

店主が見て見ぬふりをしているうちは、それ以上のことは起きなかったらしい。

しかし、何年かぶりに訪れた常連が、あの男の座っていた席の隣に座ると、必ず何かが起こるようになった。

最初は、客が突然むせる程度だった。

やがて、飲み物を飲んでいる最中に激しく咳き込み、そのまま帰ってしまう客が増えた。中には、翌日から何も食べられなくなった人もいたという。

だから客足が遠のいたのだと、店主は話していたそうだ。

ただ、私のように、喉から爪が出てきたという話は初めてだった。

そのことを聞いてから、私は赤ホッピーを飲めなくなった。

今では普通の水でも、ときどき飲み込むのが怖い。

何かを口に含むたび、喉の奥に、もうひとつの口が開く気配がするからだ。

そして最近、別の異変が始まった。

朝起きると、枕元に、濡れた爪が落ちている。

以前は一枚か二枚だった。今では五枚、十枚と増えることがある。どれも大人のものらしいが、大きさも厚みも少しずつ違っている。

昨夜は、十五枚あった。

その中に一枚だけ、見覚えのある爪が混じっていた。

右手の人差し指の爪だった。

私の爪と同じ位置に、昔、仕事で挟んだときの細い傷が入っていた。

恐る恐る自分の右手を見ると、爪はちゃんと付いていた。

ただ、表面にあったはずの傷が、消えていた。

その朝から、私は食べ物を飲み込むたびに、自分の喉の奥で、誰かが満足そうに息を吐くのを聞いている。

そして、あの居酒屋には、もう二度と行っていない。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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