その店では、瓶ビールと梅酒を並べて飲むのが好きだった。
カウンターの奥には瓶ビール、手前にはちくわの磯辺揚げ。小皿のタルタルに醤油を垂らすと、白い山の縁に黒い輪ができた。見た目は少し乱暴なのに、これが妙にうまい。衣の青のりと甘いタルタル、醤油の塩気が、喉の奥で酒に合う。
最初の異変は、その小皿だった。
一口目を食べたあと、箸を置いた瞬間、タルタルの表面に細い溝がついた。誰かが指先で、醤油の黒いところだけをすうっと撫でたような跡だった。
隣には誰もいない。
瓶ビールを注いで飲んでいた右側のグラスは、もう空になっていた。けれど、グラスの外側だけが白く曇っている。冷たいビールを注いだ直後の曇り方ではない。内側から、息を吹きかけられているみたいだった。
私は店員に聞こうとして、やめた。カウンターの向こうで焼き場の音がして、背後では客が笑っている。こんな場所で、さっきまで自分が使っていたグラスのことを口にするのが、急に恥ずかしくなった。
二口目を食べた。
すると今度は、右肩のあたりが冷えた。冷房ではない。人が横に座ったときの、わずかに空気が押される感じがあった。見ないようにして梅酒を飲むと、氷がカランと鳴るより先に、空のビールグラスが同じ音を立てた。
その音で、私は見てしまった。
右隣の席に、人影が座っていた。
黒いというより、薄い。濡れた紙を灯りに透かしたような輪郭で、頭と肩と肘だけがある。顔はない。服もない。ただ、人がそこに腰掛けて、こちらの皿へ身を寄せている姿勢だけが、はっきり分かった。
影の肘が、カウンターに触れているはずの場所だけ、木目が暗く沈んでいた。
私は動けなかった。
影は喋らない。こちらを見もしない。ただ、ちくわの皿と、タルタルの小皿だけをじっと覗き込んでいた。やがて、影の手らしいものが伸びる。指は見えないのに、醤油だまりの表面が、また細く割れた。
白いタルタルが、少し減った。
本当に減ったのか、目の錯覚なのか分からない。けれど醤油の黒い輪は、さっきより濃くなっていた。まるで底から何かが滲んでいるみたいに。
私は急いで残りを食べた。味がしなかった。衣は熱いのに、噛むたび中だけが冷えている。ちくわの穴の向こうに、薄い人影の膝が見える。膝はカウンターの下でこちらに向かず、店の奥へ向いていた。帰る気配がない。
皿が空になると、影はゆっくり姿勢を戻した。
そのとき初めて、私は影の前にも何かが置かれていることに気づいた。さっきまで何もなかったカウンターに、丸い濡れ跡がある。グラスの底の跡だ。私の空のビールグラスと同じ大きさの輪が、その右に、ぴたりと並んでいた。
店員が皿を下げに来た瞬間、人影は消えた。
「あれ」
店員が小皿を見て、少しだけ手を止めた。
白いタルタルは残っていない。醤油も残っていない。代わりに、小皿の底に、青のりが貼りついていた。人の指紋みたいな渦を作って。
店員は何も言わず、それを布巾で拭いた。だが拭いても、青のりの渦は取れなかった。陶器に染み込んだように、緑の細い線だけが残った。
会計を済ませて外へ出ると、右肩だけがまだ冷たかった。
家に帰って上着を脱ぐと、右袖の内側に醤油の匂いが染みていた。食べこぼした覚えはない。袖口を裏返すと、青のりが一粒だけ付いていた。
つまんで捨てようとした瞬間、指先が止まった。
青のりだと思ったものは、細く縮れた、人の髪だった。
翌週、どうしても確かめたくなって同じ店へ行った。いつもの席は空いていた。瓶ビールを頼むと、店員は何も聞かず、グラスを二つ置いた。
「ひとつで大丈夫です」
そう言うと、店員は一瞬だけ手を止めた。
そして、小さな声で言った。
「……前も、そうおっしゃいましたよ」
座る前から、右側のグラスの内側が白く曇っていた。
そしてカウンターには、拭いても消えない丸い跡が二つ並んでいた。
ひとつは、私が使ったビールグラスの跡。
もうひとつは、その隣に座る誰かの、濡れた肘の跡だった。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

