握り返す継ぎ目

写真怪談

満員電車の遅延ほど、逃げ場のないものはない。

その日、都心へ向かう車両は駅ごとに人を吐き出すより多く吸い込み、気づけば私は車両と車両のあいだ、蛇腹の連結部分まで押しやられていた。足元は揺れ、背中は誰かの鞄に押され、右手だけが銀色の手すりを握っていた。

手すりは冷たかった。

冷房のせいではない。汗ばんだ手のひらに触れているのに、金属だけが冷蔵庫の奥みたいに冷え、指の節から体温を抜いていく。車内放送は遅延の理由を繰り返していたが、連結部分では言葉が妙に伸びて聞こえた。

「前の電車との、間隔を……調整……」

そこで車体が大きく揺れた。

私の手の下で、手すりがほんの少し動いた。電車の揺れに合わせた震えではなかった。握った場所の内側から、別の指が一本ずつ曲がってくるような、ぬるりとした圧があった。

反射的に手を離そうとしたが、後ろから人が詰まり、肘も肩も動かせない。左側の蛇腹の壁が、息をするように膨らんでいた。灰色の布地に縦の皺が寄り、その皺の奥が、暗い隙間ではなく、濡れた喉の奥みたいに見えた。

次の駅までの数分が、異様に長かった。

スマホを見ていた前の女性の画面が、ふいに真っ黒になった。電池切れかと思ったが、画面には時刻だけが表示されていた。

8:43。

車内の案内表示も、誰かの腕時計も、すべて8:43で止まっていた。なのに電車は走っている。線路の継ぎ目を踏む音だけが、いつもより多く、細かく、同じ間隔で続いていた。

私の右手に、また圧がかかった。

今度ははっきりと握り返された。手すりを握っている私の指の外側からではない。手すりそのものの中に、もう一本の手が通っていて、内側から私の手の形に合わせて膨らんでくる。金属の表面が、指の腹の形にへこんだ。

「すみません、降ります」

誰かが奥でそう言った。だが扉はまだ開いていない。声のした方を見ても、人の頭と肩が重なっているだけで、誰も動けるはずがなかった。

その直後、蛇腹の下の床に黒い線が一本走った。

油汚れのように見えた。線は足元から車両の奥へではなく、連結部分の隙間に沿って横へ伸びていた。そこに立っている人たちの靴の下を避けるように、細く、曲がりながら増えていく。

線は、手のひらの皺だった。

それに気づいた瞬間、手すりの冷たさが消えた。代わりに、人肌より少し低い温度が右手を包んだ。背後の圧が一瞬だけゆるみ、私はようやく指を引きはがした。

手すりには、私の手形が残っていた。

水滴でも曇りでもない。金属の表面が、握った部分だけ柔らかい粘土みたいに沈み、五本の指のあとがくっきり食い込んでいた。だが、その手形は私のものより指が一本多かった。

親指の外側に、細い六本目の跡があった。

駅に着くと、何事もなかったように扉が開いた。人の流れに押されてホームへ出た私は、振り返らずにはいられなかった。連結部分には、次に乗る人たちがもう詰め込まれている。

銀色の手すりは元に戻っていた。

ただ、蛇腹の布の一番下に、掌紋のような黒い線がいくつも浮いていた。さっきより増えている。電車が発車すると、その線は車体の揺れに合わせて、ゆっくり開いたり閉じたりした。

翌朝、同じ路線はまた遅延した。

乗るつもりはなかったのに、改札の前で足が止まった。発車案内には「車両点検」と出ていた。ホームの端で待っていると、係員が連結部分を覗き込み、首を傾げていた。

手すりに、誰かが掴まった跡が残っていたらしい。

ただしその跡は、外側から握ったものではなかった。金属の内側から押し出されたように、五本の指がこちらへ膨らんでいたという。

係員がそれを布で拭くと、跡は消えた。

そのかわり、布の上に小さな汗染みが浮いた。握ったあとの形をした、六本指の汗染みだった。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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