釣り銭口の出口

晩酌怪談

その店は、駅から少し離れた坂の途中にある。

古い大衆酒場で、入口は通りより少し高いところにあり、飲み終えると狭い階段を降りて、自販機の明るい列の横へ出る。酔った体には、その白い光がいつも少しまぶしかった。

知人はその店が好きで、遠いのに年に何度か通っていた。何を食べても旨い。店員も感じがいい。帰り道まで含めて、あの店に行った日はいい夜だった、と思える場所だったそうだ。

その夜も、よく飲んだ。

会計を済ませ、店の灯りを背中に受けながら階段へ出る。上ではまだ笑い声がして、暖簾の奥で皿の重なる音がしていた。提灯の明かりが足元に揺れて、下の自販機だけが白く浮いて見えた。

一段降りる。

ちゃり、と下で鳴った。

自販機の釣り銭口だった。

誰かが飲み物を買った直後でもない。前に立っている人もいない。ただ、白く照らされた返却口の奥で、十円玉が一枚だけ縁で立っていた。

横になっているのではない。細い溝に挟まったみたいに、まっすぐ立っていた。

酔いのせいでそう見えるのだと思い、知人は指を伸ばした。つまみ上げた十円玉は、ぬるかった。

人の手で温めた硬貨というより、長い間、口の中に入れられていたもののような温度だった。気味が悪くなって、自販機の上に置き、そのまま坂を下った。

翌朝、財布の小銭入れに同じ十円玉が入っていた。

年号がなかった。

表には十円とある。裏には平等院の模様もある。けれど本来あるはずの数字だけが、削れたように消えていた。その代わり、縁の近くに小さく「出」と打たれていた。

しばらくして、またその店へ行った。

相変わらず料理は旨く、酒もよく進んだ。帰るころには少し足元が軽くなっていて、知人は手すりに触れながら階段を降りた。

一段目で、ちゃり。

二段目で、ちゃり。

音は足元ではなく、下の自販機からしていた。段を降りるたびに、釣り銭口の奥で硬貨が増えていく。

知人は途中で足を止めた。

階段は短い。店の入口から通りまでは、ほんの数段しかない。写真で見てもわかるくらいの、ごく普通の外階段だ。

それなのに、その夜は白い自販機の光が近づかなかった。

降りても、降りても、次の段が出てくる。手すりは同じ角度で続き、左側の自販機はずっと少し下にある。すぐそこに見えているのに、足が届かない。

上の笑い声が遠くなった。

代わりに、ちゃり、ちゃり、という音だけがはっきりしてくる。硬貨が落ちているのではなく、返却口の中で、一枚ずつ立ち上がっているような音だった。

知人は振り返らなかった。

振り返ってはいけない、と思ったわけではない。ただ、そのとき背中側の暖簾の下に、誰かの気配があった。

店員でも客でもない。

頭の高さに何もなく、肩だけがある。

黒い服を着た誰かが、暖簾をくぐらず、暖簾の下からそのまま階段へ降りようとしていた。

知人は下を向いた。

次の瞬間、靴の先が路面に触れた。

階段は普通の長さに戻っていた。白い自販機がすぐ横にあり、坂の向こうには夜の道が続いていた。

釣り銭口には、十円玉が三枚入っていた。

どれも立っていた。

触らずに帰った。

家に着いて財布を開けると、小銭入れの中の十円玉がすべて同じ向きに揃っていた。全部、年号がない。縁の小さな文字は、一枚ずつ違っていた。

一枚目は「出」。

二枚目は「口」。

三枚目は、何もなかった。

翌日、近くのコンビニで使おうとした。レジに出した瞬間、店員が少しだけ眉をひそめた。

「これ、濡れてますね」

見れば、十円玉の表面に細かな泡がついていた。

水ではない。薄く黄色い、ビールの泡のようなものだった。指で拭うと、鉄と酢と、焼いた肉の脂が混じった匂いがした。

知人はその硬貨を使わず持ち帰った。

それ以来、あの店へは行っていない。

ただ、財布の中の十円玉はまだ一枚だけ残っている。捨てても戻る。駅の募金箱に入れても、自販機で使っても、数日後には小銭入れの底に立っている。

最近、その文字が変わったという。

「出」でも「口」でもない。

今は、小さく「下」と打たれている。

知人は、次にあの店の階段を降りたとき、もう一段だけ余分な段があるのではないか、と言っていた。

そしてその段は、店の外へ続いているのではなく、自販機の釣り銭口の奥へ降りていくのだと思う、と。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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