朝の八時半、専門学校の校舎前の横断歩道は、いつも人で詰まっている。
その日は小雨のあとで、ビルの白いタイルも、歩道の赤い舗装も、まだ薄く湿っていた。通学する学生と通勤途中の会社員が混じって信号待ちをしているあいだ、何人かが顔を上げた。専門学校の看板のすぐ下で、作業員がロープにぶら下がり、細長い窓を拭いていたからだ。
高い場所にいる人を見ると、どうしても足の裏がむずむずする。私は一度だけ見上げて、すぐ目を逸らした。
その一度で、見てしまった。
作業員の背中の向こう、拭かれたばかりのガラスに、こちらの横断歩道が映っていた。青いコーン、黒と黄色のバー、信号待ちの人の列。そこまでは普通だった。
ただ、映っている人たちは全員、こちらを向いていなかった。
ガラスの中の歩行者だけが、ビルの上を見上げていた。
現実の歩道では、スマホを見る人、信号を見る人、傘を畳む人がいる。誰も同じ方向など見ていない。なのに窓の中では、全員が首を反らせて、作業員のさらに上を見ていた。
私も、窓の中の自分だけが上を向いていた。
信号が青になり、人が流れ出した。私も足を出したが、ビルの窓から水が落ちてきた。洗剤を含んだ白い雫だった。肩に当たるかと思ったそれは、横断歩道の白線の上でぱちんと弾けた。
白線に、細い筋が残った。
ロープの影みたいな、まっすぐな青い筋だった。
誰も気にしなかった。通勤の足音がそれを踏んでいく。けれど踏まれるたび、筋は消えるどころか濃くなった。一本、二本、三本。横断歩道の白線の上に、濡れた縄目だけが増えていく。
ビルの上で、作業員が動きを止めた。
窓を拭くワイパーが、ガラスに貼りついたまま離れない。彼は腕を引いたが、ゴムの刃先が窓の中へ少し沈んでいるように見えた。外側の道具が、内側に食い込んでいる。そんなふうに見えた。
そのとき、歩行者信号の青い人型が点滅を始めた。
普段なら歩いている形のはずだった。だが、信号機の中の青い人は、片腕を上に伸ばしていた。まるでビルの壁に手をつき、ぶら下がっている人間の形だった。
周りの人は急いで渡っていく。誰も見ない。いや、見ないようにしているのかもしれない。私は足を止めてしまった。
作業員が、ゆっくりこちらを振り向いた。
顔はフードでほとんど見えない。けれど、目が合った気がした。彼は助けを求めるようには動かなかった。ただ、見てはいけないものを見た人間を確認するみたいに、こちらをじっと見ていた。
次の瞬間、彼の背後のガラスが曇った。
曇りの中に、手形が浮いた。
内側からではない。外側からでもない。ガラスの厚みの真ん中に、指先だけが押し込まれている。何本もの手が、作業員の腰のロープを掴んでいた。濡れた指が、ロープを下ではなく、窓の奥へ引いていた。
作業員の体が、少しだけ沈んだ。
落ちるのではない。
壁の中へ、横向きに入っていく。
私は叫べなかった。青信号が点滅し、渡り残した人たちが小走りになる。ビルの下に立っていた誘導員も、なぜか上を見ない。ロープだけを見て、手袋をした手で握り直している。
作業員の片足が窓に触れた。靴先がガラスを滑った。そこで、ふっと消えた。
靴が脱げたのではない。足首から先だけが、向こう側に入ったのだ。続いて膝、腰、肩。最後に、窓に貼りついていたワイパーがぺたりと落ちた。
外に残ったのはロープだけだった。
ロープはぴんと張ったまま、窓の中心から生えていた。上から吊られているのではない。ガラスの中から、こちらへ垂れていた。
信号が赤になった。
その瞬間、歩道のざわめきが戻った。車が動き出し、誰かが舌打ちし、傘の先が足に当たった。見上げると、窓の外にはもう誰もいない。ビルの表面は雨上がりの灰色を映しているだけだった。
誘導員が、足元のロープを巻いていた。
けれど、その先は窓からではなく、横断歩道の白線から伸びていた。さっき洗剤が落ちた場所。青い筋が残った場所から、濡れた縄が一本、ぬるりと出ている。
誘導員はそれを見ても驚かなかった。
ただ小さく首を振り、青いコーンの内側へ押し込んだ。
それ以来、私はその交差点では上を見ない。
専門学校の看板の下で窓掃除をしている人がいても、ロープが風に揺れていても、歩行者信号の青い人型が妙に腕を伸ばしている朝でも、絶対に見ない。
ただ、雨上がりの日だけ、横断歩道の白線に細い青い筋が浮く。
踏むと、靴底に洗剤の匂いが残る。
そして駅に着くころ、ビルもロープもない地下通路のガラスに、フードをかぶった誰かが映る。
こちらを見ている。
窓を拭くみたいに、内側から、ゆっくり手を動かしながら。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

