空の裏の息

写真怪談

友人たちと山あいのキャンプ場で飲んでいた夜だった。

焚き火はもう落としていて、テントの中にはランタンの明かりと、缶を開ける音と、誰かが笑う声だけが残っていた。酒が回ると、外の暗さは妙に遠くなる。けれど、トイレに行こうとしてテントを出た瞬間、その遠さが急に近づいた。

空が、低かった。

木々の黒い稜線の向こうで月が光っていた。月そのものは枝に隠れているのに、雲だけが内側から照らされて、青白く膨らんでいる。神秘的、と言えばそうだった。けれど、その雲には、見上げてはいけないものの皺があった。

風はなかった。

なのに雲の皺だけが、ゆっくり寄ったり、ほどけたりした。流れているのではない。大きな布の裏側が、こちらの息に合わせてたわんでいるようだった。

トイレまでの道は短い。昼間に何度も通っている。左に木、右に斜面、少し先に外灯。足元の砂利を踏む音も、普段なら自分のものとして聞こえる。

その夜は違った。

一歩歩くたび、砂利の音が頭上で鳴った。ざり、という音が足元ではなく、雲の皺の奥から落ちてくる。最初は反響かと思ったが、次の一歩で分かった。

音が先だった。

頭上で、ざり、と鳴る。半拍遅れて、自分の足が砂利を踏む。三歩目には怖くなって立ち止まった。すると雲の中で、もう一歩ぶんだけ音がした。

自分は動いていない。

けれど、上では誰かが、こちらの歩き方を先に済ませていた。

テントの方を振り返ると、友人たちの笑い声が聞こえた。布越しの明かりも見える。そこだけは人間の場所だと思えた。だが、その明かりの上にも、雲の皺がかぶさっていた。テントが空の下にあるのではなく、巨大な何かの腹の内側に、僕らが灯りを置いているように見えた。

急いでトイレを済ませ、戻った。

戻る途中で、外灯の下を通ったときだった。自分の影がなかった。月明かりも外灯もある。足元には石も草も見える。なのに、自分の影だけが地面に落ちていない。

代わりに、雲の方にあった。

見上げると、青白い皺の中に、黒い小さな人型のくぼみが浮いていた。手足のある影ではない。人ひとりが、雲の裏側へうつ伏せに押しつけられているような、浅いへこみだった。

僕が息を止めると、そのへこみも止まった。

息を吐くと、少し深くなった。

テントに戻ると、友人たちはまだ同じ話で笑っていた。僕が出てから、十秒も経っていないと言う。そんなはずはない。トイレまで行って戻った。足も冷えている。手の甲には、外の湿った空気が残っている。

笑ってごまかし、缶を手に取った。

缶の表面が、びっしり濡れていた。冷えて結露したのではない。水滴が、さっき見た雲と同じ皺を作っていた。細かい波のような白い筋が、缶のアルミの上に浮き、指で拭っても、すぐまた同じ形に戻る。

友人の一人が「それ、どうした」と言った。

見ると、僕の首元から白い息が出ていた。寒い夜ではあったが、テントの中で息が白くなるほどではない。しかも、その息は上にのぼらなかった。口から出た瞬間、横へ薄く広がり、テントの天井に張りついた。

布の内側に、青白い雲の皺ができた。

誰も黙った。

ランタンの明かりが小さく揺れ、テントの布が一度だけ外から押された。風ではない。外には誰もいない。なのに天井の皺の中心だけが、ゆっくりこちらへ沈んできた。

友人が慌てて入口を開けた。

外の空は、もう普通に暗かった。月も雲も、木々の向こうに遠くあった。ただ、さっきまで神秘的に広がっていた青白い雲は、少し形を変えていた。

人ひとり分、薄くなっていた。

その夜は誰もそれ以上飲まなかった。朝になってテントをたたむと、内側の天井に白い跡が残っていた。カビでも汚れでもない。雲の皺と同じ形の、乾いた水跡だった。

僕の息が張りついた場所だ。

友人が濡れタオルでこすったが、落ちなかった。むしろこするたび、皺は少しずつ細かくなり、布の繊維の奥へ沈んでいくように見えた。

帰ってから数日後、その友人から連絡が来た。

車の窓ガラスが曇るたびに、同じ皺が出るという。外側ではなく、内側に。エアコンをつけても消えない。夜の山道を走っていなくても、街灯の下でも、コンビニの駐車場でも、窓いっぱいに青白い雲が浮かぶ。

ただし、助手席のところだけ黒くへこんでいるらしい。

僕が座っていた場所だ。

それ以来、曇った夜空を見ると、息を止める癖がついた。あの雲が空にあるのか、空の裏側に張りついているだけなのか、もう分からない。

分かるのは、ひとつだけだ。

あの夜、僕はトイレへ行って戻ってきた。

でも、僕の影だけは、まだあの雲の裏にいる。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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