夜の高架下を歩いていると、川だけが先に眠ってしまったように見える場所がある。
その日、会社帰りの男は、いつも使う橋が工事で塞がれていたため、遠回りをして高架下の遊歩道へ入った。頭上では車が途切れず走っていたが、音は柱に吸われて、ずっと遠い雨のように聞こえた。
川面には向かいのビルの明かりが映っていた。四角い窓の光が、水の中で細かく震えている。なのに、男はそこで足を止めた。
水面だけ、色がなかった。
夜だから暗い、というのとは違う。対岸の白い外灯も、赤く光っているはずの自転車の反射板も、ビルの看板も、水に映った瞬間だけ灰色になっていた。水が光を反射しているのではなく、色だけを濾し取ってから返しているようだった。
気味が悪くなって歩き出したが、すぐに違和感が追いかけてきた。欄干の影が、足元より先に動いた。
男が一歩進む前に、影のほうが一歩ぶん伸びる。止まると、影も止まる。ただし、半拍だけ遅れてではない。半拍だけ早く。
高架の柱の間を抜けるたび、川面のビル窓がひとつずつ消えていった。見上げれば、実際のビルにはまだ灯りがある。だが水の中では、同じ窓だけが黒く塞がっている。その黒い四角が、男の歩幅に合わせて横へ移動した。
最初は窓だと思った。
次の柱を過ぎたとき、それが顔のない人の頭だと分かった。
水面の中だけに、誰かが立っていた。対岸には誰もいない。こちら側にも、男以外の通行人はいない。それなのに川の中の反射には、男の真下から少し外れた位置に、縦に長い黒い姿があった。
その姿は、水に沈んでいるのではなかった。
こちらの世界の下側に立って、上を見ている。
男は見ないようにして早足になった。だが川面の中の黒い姿は、歩くのではなく、窓の明かりを消しながら横滑りしてついてきた。ビルの反射が途切れるたび、周囲の色も少しずつ抜けていく。植え込みの緑。工事灯のオレンジ。遠くの信号の赤。
すべてが、目の端から灰色になった。
遊歩道の出口が見えた。階段を上がれば大通りに戻れる。男は最後の柱を過ぎる前に走った。
その瞬間、川の中で、すべての窓明かりが一斉に消えた。
高架下が真っ暗になったわけではない。現実の街は明るいままだった。だが川面には、建物も柱も欄干も映らなくなっていた。ただ平たい黒が広がり、その上に男の影だけが残っていた。
影は立ち止まっていなかった。
男が階段へ向かっているのに、水面の影は川の中央へ歩いていく。足首も膝も見えないのに、歩いていることだけは分かった。やがて影は、川の真ん中でこちらを振り向くように、首のない上体を傾けた。
そして、男の背中が急に軽くなった。
階段を駆け上がり、大通りへ出た。コンビニの明かり、タクシーのテールランプ、歩行者信号の青。色は戻っていた。男は自分の手を見た。肌色も、鞄の茶色も、ネクタイの紺もある。
安心して、ふとショーウィンドウに映った自分を見た。
そこには、男だけがいなかった。
ガラスには街路樹も、通り過ぎる自転車も、コンビニの看板も映っていた。だが男のいる場所だけ、灰色の空白になっている。人型に抜けているのではない。そこだけ色を失った水面のように、平たく、濡れた黒で塞がっていた。
翌日、男は会社で何度も鏡を見た。顔はある。声も出る。同僚も普通に話しかけてくる。
ただ、コピー機のガラスに原稿を置いたとき、彼は自分の手首が映っていないことに気づいた。
印刷された紙には、書類の文字の端にだけ、薄い灰色のにじみがあった。インク汚れではない。四角い窓の形をした染みが、いくつも並んでいる。
その日の夕方、男のスマートフォンに知らない通知が出た。
写真も撮っていないのに、アルバムに一枚だけ画像が増えていた。昨夜の高架下の川だった。灰色の水面、柱、ビルの明かり。
その中央に、男の後ろ姿が映っていた。
ただし、岸の上には誰も立っていない。
以後、男は夜の水辺へ近づかないようにしている。だが雨が降った日の帰り道だけは別だ。歩道の水たまりを踏む前に、必ず中を覗く。
そこに映る街が少しでも白黒に見えたら、引き返すために。
最近、彼の靴底だけが乾かなくなった。
玄関に脱いでおくと、翌朝、靴の周りに四角い灰色の跡が並んでいる。ビルの窓のような小さな跡だ。ひと晩ごとに数が増え、今では玄関のたたきから廊下へ、まっすぐ奥へ続いている。
水の匂いはしない。
ただ、そこだけ色がない。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

