涼味の一口

写真怪談

スーパーの和菓子コーナーは、夕方になると妙に静かになる。

惣菜売場から揚げ物の匂いが流れてきても、レジの呼び出し音が鳴っても、和菓子の棚の前だけは、音が一枚薄い膜に包まれたように遠くなる。抹茶ういろう、栗むしようかん、水まんじゅう、くずきり。青い「涼味」の札の下に、緑と桃色の小さな箱が、行儀よく並んでいる。

その日、私は値引きシールを貼るために棚の前へしゃがんだ。

抹茶ういろうの包装が、少しだけ曇っていた。

透明なフィルムは破れていない。中身もきれいな長方形のまま収まっている。けれどフィルムの内側だけ、ひと口ぶんの形に白く濁っていた。

誰かが、封を切らずに中から息を吹きかけたみたいだった。

指で外側を拭いても消えなかった。湿気のせいかと思って棚を見回すと、同じ曇りがもう一つ、桃色のういろうにも出ていた。丸くない。歯形でもない。だが人の口が近づいたあとに残る、あの生々しい楕円だけが、包装の内側に薄く貼りついている。

売場担当の社員に言うと、彼は商品を二つ手に取り、黙って廃棄用のカゴへ入れた。

「たまにあるんですか」

そう聞くと、彼は青い札を見たまま、「夏だけ」と言った。

その晩、閉店後の品出しで、私はもう一度そのコーナーを通った。照明は少し落とされ、棚の奥に並んだ和菓子の色だけが、昼間よりも淡く浮いて見えた。青い「涼味」の札は、周囲の値札より少しだけ明るい。

売り場の中央に並んだ水まんじゅうのカップの表面が、白く濁っていた。

蓋はどれも未開封だった。けれど中の寒天の表面に、小さな窪みがあった。一個につき一つずつ。スプーンを差し入れて、ほんの少しだけ掬ったような跡だ。蓋の裏には何もついていない。カップは密封されている。売場には私しかいない。

棚の奥から、甘い匂いがした。

あんこの匂いではない。砂糖でもない。もっと乾いていて、喉の奥に直接置かれるような甘さだった。吸い込むと、舌の付け根がきゅっと縮んだ。私は反射的に口を閉じた。

その瞬間、棚の中で何かがへこんだ。

緑のういろうの箱だった。フィルムの内側に、またあの曇りが出ている。今度はひと口ではなかった。端から端まで、薄く濡れた線が何本も走っていた。まるで誰かが、透明な膜越しにゆっくり舌を這わせたみたいに。

翌日、私は休憩中に売場を見に行った。

問題の商品は下げられたはずだった。だが、青い「涼味」の札の真下に、一つだけ空きがあった。商品が抜けた形ではない。そこだけ棚板の表面が、白く色あせていた。長方形の跡の中央に、浅い楕円のくぼみがある。

触ると、濡れていないのに指先がべたついた。

慌てて手を引いた。甘い匂いが、指先ではなく、鼻の奥に直接入り込んでくる。売場では確認できないと思い、私はそのままバックヤードへ戻って、石鹸で何度も手を洗った。

それでも、指先に残った感覚だけは落ちなかった。

砂糖水に触れたあとのような粘りではない。もっと薄く、乾いていて、皮膚の下に染み込んだような甘さだった。水で流しても、タオルで拭いても、鼻の奥にだけ甘い匂いが残る。

それから数日、和菓子コーナーでは同じことが続いた。

朝には何ともない。昼には涼しげに見える。夕方になると、未開封の包装の内側に、ひと口ぶんの曇りが出る。閉店後には、カップ菓子の表面が一匙だけへこむ。廃棄しても、翌日には別の商品に移る。

不思議なのは、買った客から苦情が出ないことだった。

むしろ売れた。値引き前でも、涼味の札の下の商品だけがよく動いた。買っていく人は、みんな一度だけ棚の前で口を閉じる。何かを飲み込むように喉を動かし、それから商品を手に取る。

ある夕方、小さな男の子が栗むしようかんの前で立ち止まった。

母親が「それは大人の味だよ」と笑った。男の子は答えず、じっと棚を見ていた。やがて、透明なフィルムの内側に白い曇りが浮いた。男の子の口の高さではない。ずっと低い、棚の奥の暗いところから、誰かが商品へ顔を近づけた位置だった。

男の子は泣かなかった。

ただ、自分の舌を指で触り、母親に見せた。

舌の先が、白くなっていた。

その夜、社員は売場の配置を変えた。涼味の札を外し、ういろうとようかんを別々の棚に分けた。水まんじゅうも奥へ移した。私は手伝いながら、外された青い札を作業台へ置いた。

札の裏に、白い跡があった。

値札を留めるクリップの跡ではない。テープの粘着でもない。楕円形の曇りが、裏側から浮いている。よく見ると、その中央だけ紙が薄くへこんでいた。誰かが紙の向こうから、舌で押したように。

翌朝、売場は元に戻っていた。

誰が戻したのかは分からない。防犯カメラにも映っていなかった。抹茶ういろう、桃色のういろう、栗むしようかん、水まんじゅう、くずきり。青い「涼味」の札の下に、前と同じ順番で並んでいる。

ただ、ひとつだけ違った。

どの商品にも、値引きシールが貼られていなかった。

開店前なのに、すべての包装の内側に、あの白いひと口がついていた。棚板にも、値札にも、青い札の表面にも、同じ楕円がびっしり並んでいる。数えようとすると舌の奥が冷たくなり、途中で数を忘れた。

社員は何も言わず、青い札を外した。

その瞬間、売場の空気が急に重くなった。棚の上の包装が、一つずつ白く曇りはじめた。全体ではない。人が口を近づけた場所だけが、一つずつ白くなる。下から上へ。奥から手前へ。やがて棚一面が、見えない誰かの息で埋まった。

その曇りの向こうで、ういろうの箱が一つ、ゆっくりへこんだ。

食べられているのだと思った。

けれど中身は減っていない。餡も、寒天も、羊羹も、形のままだった。減っているのは、味だった。甘さだけが、少しずつ吸われていた。

その日から、私は甘いものの味が分からない。

砂糖を舐めても、饅頭を食べても、口の中には冷たい水の膜だけが広がる。匂いは分かる。色も分かる。舌触りも分かる。けれど甘さだけが、どこかの和菓子棚の奥へ置き忘れられている。

店の和菓子コーナーは、今も普通に営業している。

青い「涼味」の札も戻っている。抹茶ういろうは百九十九円、栗むしようかんは二百九十九円。緑と桃色の箱は、写真に撮ればただの涼しげな売場にしか見えない。

ただ、閉店前に棚の前へしゃがむと、包装の内側にひと口ぶんの曇りが出ることがある。

そのとき、商品ではなく、自分の舌の先が少し冷える。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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