あのビルの非常階段を見上げると、嫌な予感がする理由は、上に誰かがいるからではなかった。
むしろ逆で、そこだけ、何もいなさすぎるのだ。
駅前の通りに面した白い建物で、外壁の中央を非常階段がジグザグに走っている。昼間に見上げると、青空の明るさで階段も手すりも白く飛び、目が痛くなるほど清潔に見えた。けれど、何度か通ううちに、一か所だけおかしいと気づいた。
手すりの縦棒の隙間が、そこだけ青くなかった。
空が見えるはずの細い隙間が、乾いた白い膜で塞がっているように見えた。壁でも雲でもない。人の胴ほどの幅で、ただ光だけが抜け落ちている。目を細めると、かえってその空白は濃くなった。
最初は七階あたりだった。
次にその前を通ったとき、空白は六階の踊り場に移っていた。上から降りている、と考えた瞬間、背中が冷たくなった。もちろん人影ではない。足も顔もない。ただ、人がそこに立っていたなら隠れるはずのぶんだけ、空が白く塗りつぶされている。
見ないようにして通り過ぎた。
それでも、あの非常階段の下を抜けるときだけ、額に細い圧迫感が残る。帽子をかぶっているわけでもないのに、手すりの影を頭に乗せられているような感覚だった。ビルの入口のガラスに自分の顔が映ったとき、額から頬にかけて、白い縦線が何本も浮いていた。
日焼けではなかった。
指でこすっても消えない。皮膚の下に、細い柵が透けているようだった。しかも、その線の一本だけが途中で途切れている。ちょうど、非常階段の空白と同じ幅で。
その日から、見上げるたびに空白は一段ずつ下がった。
誰かが降りてくるような速さではない。ビルそのものが、長い時間をかけて何かを下ろしているようだった。階段の裏側には風もないのに、白い塗装の表面だけがかすかに波打ち、手すりの縦棒は全部、外側ではなく内側へ傾いて見えた。
五階。
四階。
三階。
そこまで来ると、もう見上げなくても分かった。ビルの前に立つだけで、胸の奥が細く締まる。目の端に、白い空白が落ちてくる気配がある。人影を見そうだ、と思う。けれど実際に現れるのは、影ではない。影を作るものが先に取り除かれたような、人の形をした欠け目だった。
最後に見たのは、雨上がりの昼だった。
空は晴れていたのに、非常階段の下だけが薄暗かった。空白はもう二階の踊り場にあった。道路から見上げると、ほとんど目の高さだ。白い柵の隙間に、こちらを向いた穴がある。穴の奥に青空はなかった。代わりに、白い階段の裏側が何枚も重なっていた。
その一番奥で、同じ幅の空白が、もうひとつ開いた。
息を吸った瞬間、額の縦線がずきりと痛んだ。皮膚の下の柵が、一本ずつ内側へ押し込まれる感じがした。慌ててその場を離れたが、帰宅して鏡を見ると、顔の線は消えていた。
消えたのではなく、移っていた。
首の後ろに、白い縦線が並んでいた。自分では見えない場所に、非常階段の柵が刻まれていた。その中の一本だけが欠けている。欠けた幅は、ちょうど喉の太さほどだった。
翌朝、ビルの前を通ると、非常階段はいつものように白く、空は青く、どこにも人影などなかった。
ただ、二階の手すりに一本だけ新しい縦棒が増えていた。
真っ白な塗装はまだ乾ききっておらず、表面に細いしわが寄っていた。しわは、皮膚のように見えた。風が吹くと、その一本だけがほかの柵よりわずかに遅れて震えた。
そしてその下の隙間に、次の空白がもうできていた。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

