朝九時の都心の駅は、毎日同じ顔をしている。
東口と西口を示す黄色い案内板の下で、スーツ姿の人たちが一列になっていた。誰も怒鳴らない。誰も笑わない。改札から流れてきた人間が、そのままホーム端の柵の内側へ押し込まれ、電車を待つ形になる。
その駅を使う会社員の女性は、ある週から妙なことに気づいた。
列の中に、いつも同じ角度で首を落としている男がいる。
黒い上着、白いシャツ、片手のスマートフォン。そういう人ならいくらでもいる。けれどその男だけ、首の角度が深すぎた。画面を見るというより、喉の骨を折って、胸に顔を預けているようだった。
初日は寝不足かと思った。
翌日もいた。
三日目もいた。
不気味だったのは、男の位置が毎日違うことだった。列の中ほどにいた日もあれば、階段側にいた日もある。けれど電車が近づくと、必ず女性の三人前に来ていた。
列が動いていないのに、そこにいる。
四日目、女性は試しに視線を外さずに見ていた。柵の銀色の縦棒が、男の身体を何本にも切り分けている。前の人の肩、後ろの人の鞄、傘の先。人混みは少しずつ揺れるのに、男だけは揺れなかった。
ホームに電車の風が入った。
その瞬間、周囲の通勤客が一斉にスマートフォンへ目を落とした。
偶然とは思えないほど、同じ角度で。
女性の隣にいた若い男も、向かいの中年も、マスクをした女性も、みんな首を落とした。顔が見えなくなり、列は黒い後頭部だけの塊になった。
ただ一人、女性だけが前を見ていた。
すると三人前の男の首が、さらに少し下がった。
こき、と乾いた音がした。
ホームの放送が流れたが、駅名の部分だけ聞こえなかった。ざらざらした息のようなノイズが混じり、そのあとで「足元にご注意ください」とだけ、妙に近い声で聞こえた。
女性は乗るのをやめた。
列を抜けようとしたが、後ろの人にぶつかった。振り返ると、その人も首を落としていた。画面は真っ黒だった。何も表示されていないスマートフォンを、全員が見つめている。
いや、見つめているのではない。
首を落とすために、スマートフォンを持たされている。
電車の扉が開いた。
人々は無言で乗り込んだ。三人前の男も乗った。だが足の運びが変だった。膝から下だけが通勤客らしく動き、上半身は吊られたまま滑っていく。扉の内側に入る直前、男の首が一瞬だけ横へ倒れた。
顔がなかった。
あるはずの場所には、濃い影だけが詰まっていた。目も鼻も口もない。ただ、暗い布を押し込んだような面が、胸元のスマートフォンの画面にぴたりと貼りついている。
女性は声を出せなかった。
扉が閉まり、電車が出ていく。ホームには風だけが残った。
そのあと女性は、柵の前で奇妙なものを見つけた。足元の黄色い注意表示の上に、薄く湿った跡が並んでいた。靴跡ではない。小さな楕円形の跡が、いくつも、胸の高さから滴ったように床へ落ちている。
まるで、顔から落ちた何かだった。
翌週から、女性は一本遅い電車に変えた。
それでも朝九時前後、その駅のホームを横切ると、あの列だけは見えてしまう。人々は整然と並び、電車を待つ。スマートフォンを持ち、首を落とす。
その中に、ときどき新しい人が混じる。
まだ首の角度が浅い人だ。
最初は普通の通勤客に見える。だが日を追うごとに、少しずつ顎が沈んでいく。スマートフォンの画面は、いつも黒い。電車が来るたび、その黒さが顔の形をひとつずつ覚えていく。
最近、女性の会社でも同じ駅を使う社員が増えた。
朝礼のとき、皆が眠そうに下を向いている。その程度のことは、どこの職場にもある。
けれど女性は、会議室の長机に残された小さな湿り跡を見てから、もう誰にも注意できなくなった。
楕円形の跡が、椅子の前に並んでいた。
それも、人数より一つ多く。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


