そのカレー屋は、路地裏にあるせいで、昼どきだけ別の店みたいになる。
表通りから少し入っただけなのに、オレンジ色の庇の下へ入ると、外の音が急に平たくなる。車の音も、人の話し声も、天井の布に吸われて、蛍光灯の白い唸りだけが耳に残る。
普段なら、昼休みに行っても行列が長すぎて諦める。けれどその日は会議が長引き、店に着いたのは二時を過ぎていた。前に並んでいたのは三人だけだった。
いちばん前に背の高い男性。次に、髪の短い男性。三番目に、縞のシャツの人。私はその後ろについた。
十分くらいなら待てる。
そう思ったとき、庇の内側で、ぱち、と小さな音がした。
古い蛍光灯が鳴ったのだと思った。だが、音は頭上ではなく、前の列の間から聞こえた。誰かが指で乾いた布を弾いたような、薄い音だった。
店の扉が開き、カレーの匂いが流れてきた。
その瞬間、前にいた三人の背中が、そろって半歩だけ前へ動いた。店内から店員が顔を出したわけでもない。誰も「どうぞ」と言われていない。ただ、見えない何かに肩を押されたみたいに、列がずれた。
おかしいと思ったのは、縞のシャツの人の前に、隙間ができていたからだ。
人ひとり分ではない。もっと狭い。小柄な子どもなら立てるかもしれないくらいの、薄い隙間だった。けれどそこだけ、オレンジの光が暗く沈んで見えた。
私は目を逸らした。
路地裏の床は湿っていなかった。雨も降っていない。それなのに、その隙間の足元だけ、妙に黒く見えた。油染みのようでもあり、影のようでもあった。
やがて扉がまた開いた。
いちばん前の男性が店内に入る。残りの二人が進む。私も一歩出ようとした。
そのとき、縞のシャツの人が立ち止まった。
前にはもう一人しかいない。なのに、その人は譲るように少し肩を引いた。誰も通っていないのに、背中の布が内側から押されたようにへこんだ。
そこを、何かが通った。
見えたわけではない。ただ、カレーの匂いの中に、一瞬だけ焦げた布の匂いが混じった。オレンジ色の庇が、そこだけ低くたわんだ。蛍光灯の光が、見えない頭に遮られたみたいに細く切れた。
私は足を止めた。
待ち時間は短いはずだった。けれど腕時計を見ると、まだ二時過ぎのままだった。スマホの画面も同じだった。列に並んでから、時間が一分も進んでいない。
なのに、腹だけが妙に空いていく。
胃の奥を、温かい匙で削られているようだった。店の中から皿の触れる音がする。スプーンが金属の器をこする音。誰かが食べ終えた皿を重ねる音。
そのたびに、庇の下で、ぱち、ぱち、と乾いた音が増えた。
縞のシャツの人が店内へ入った。
私の番のはずだった。
しかし、店の扉は閉まらなかった。半開きのまま、内側の薄暗いガラスに、列の背中が映っていた。
一人、二人、三人。
そして、私の前に、もう一つ背中があった。
黒く、平たい背中だった。服の色ではない。人の背中の形をした焦げ跡が、ガラスに貼りついている。頭はなく、肩だけがある。肩の線はやけに低く、庇の影と同じオレンジ色の縁取りをしていた。
扉の向こうで、店員が言った。
「次の方」
その声は私に向けられているはずなのに、焦げた背中が先に動いた。
ガラスの中の影が、店内へすべるように入っていく。実際の入口には誰もいない。けれど扉の蝶番が、重い人を通したみたいに、ぎい、と鳴った。
私は動けなかった。
店内から、カレーの匂いが一段濃くなる。辛さではない。玉ねぎを長く焦がした甘い匂いでもない。もっと古い、布と皮膚が熱で縮むような匂いだった。
そのあと、店内のどこかで椅子が引かれた。
ぎっ。
誰かが座った。
それでようやく、私は店へ入った。
カウンターには空席が一つあった。店員は何事もない顔で水を置き、「ご注文は」と聞いた。私はメニューも見ずに、一番人気のカレーを頼んだ。
皿が出てくるまでの間、入口のガラスを見ていた。
そこにはもう、私の後ろに誰も並んでいなかった。路地は明るい。庇のオレンジだけが妙に濃く、蛍光灯の白さが負けている。
カレーはうまかった。
うまいのに、食べても食べても減りが遅い。ルーの表面に、スプーンを入れるたび、焦げ茶色の筋が一つ浮かぶ。それは香辛料の粒ではなく、何かの繊維みたいに細かった。
半分ほど食べたところで、隣の席が空いているのに気づいた。
さっき、誰かが座った音がした席だ。
水のグラスだけが置かれている。中身はまったく減っていない。だが、グラスの外側に結露ではない黒い粉がついていた。指で触れば崩れそうな、乾いた焦げの粉だった。
店員はそこを見ない。
ほかの客も見ない。
私は食べ終えると、急いで会計を済ませた。外へ出ると、庇の下に行列はなかった。
ただ、床に黒い跡が残っていた。
私が並んでいた場所の一歩前。あの薄い隙間があった場所だ。靴跡ではない。足の形でもない。四角く、浅く、何かを長い時間置いたあとのように黒ずんでいる。
見上げると、庇の裏にも同じ跡があった。
オレンジの布の内側に、肩幅くらいの影が一つ。焦げて穴が開いているわけではない。ただ、そこだけ布の色が抜け、内側から誰かの背中が押しつけられていたみたいに、薄くへこんでいる。
その後、仕事に戻ってからも、胃の奥がずっと熱かった。
夜になって上着を脱いだとき、同僚が言った。
「背中、どうしたの」
鏡で見ると、シャツの肩のあたりに、オレンジ色の細い線がついていた。庇の骨組みのような、まっすぐな線だった。
洗えば落ちると思った。
けれど、その線は翌日も残った。三日目には少し濃くなり、肩から背中へ、四角い枠のように広がった。
今でも、そのカレー屋の前を通ることがある。
昼を外した時間なら、行列は短い。十分快く待てる。そう思わせるくらいの人数しかいない。
ただ、庇の下に三人並んでいるときだけは、私は入らない。
三人に見える列の前に、いつも一人分、暗い隙間がある。
そして店の扉が開くたび、その隙間だけが、誰より先にカレーの匂いを吸い込む。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

