橋裏の水位札

写真怪談

その川沿いを歩くときは、いつも頭上の道路の腹を見ることになる。

鉄骨と配管が幾重にも重なり、昼でも薄暗い。川は緑がかった色で、橋の下だけ光を吸ったように濁っている。欄干の向こうに別の橋が見え、車の音はするのに、人の声だけが水に落ちる前に消える。

そこを通勤の近道にしていた男性は、ある日、橋脚に貼られた小さな白い札に気づいた。

「だー70」

そんな表示だった。意味はわからない。水位か、管理番号か、工事用の記号か。札は右側の太い橋脚に貼られ、水面より少し上にあった。古びてはいたが、文字だけは妙に新しく、そこだけ紙ではなく骨の表面みたいに乾いていた。

最初におかしいと思ったのは、その札の下だけ水が揺れなかったことだ。

川面には車の振動で細かい波が立っている。対岸の赤い建物も、橋の石欄干も、全部ゆらゆら崩れて映っている。なのに「だー70」の真下だけ、細い長方形に切り抜いたように平らだった。水面というより、透明な板を一枚はめたようだった。

男性はしばらく見ていたが、会社に遅れそうになってその場を離れた。

翌朝、札は少し低くなっていた。

昨日より一、二センチほど、水面に近い。剥がれかけてずれたのかと思ったが、周囲に糊の跡はなかった。むしろ橋脚の表面には、札がもともとそこにしかなかったような四角い日焼けだけが残っている。

その日の帰り、男性は水面を確認した。

やはり札の真下だけ波がない。ただ、その平らな部分の中に、上の鉄骨が映っていなかった。かわりに、縦に並んだ暗い穴が見えた。橋の裏にある格子や配管ではない。もっと狭く、古い建物の床下を覗いたときのような穴だった。

翌日、札はさらに下がっていた。

「だー70」の文字のうち、下半分が水に近づいていた。水面まではもう指二本ほどしかない。男性は手すり越しに身を乗り出し、スマートフォンで撮ろうとした。画面には橋脚も札も映る。だがシャッターを押した瞬間、画面の中だけ水がせり上がった。

実際の川は動いていない。

画面の中だけ、緑の水が札のところまで静かに上がり、「70」の下の線を舐めた。撮影された写真を見ると、橋脚の札は写っていなかった。その場所に、白い横線が七本だけ並んでいた。誰かが爪でコンクリートを引っかいたような線で、上から順に短くなっている。

その夜から、男性の靴の底が乾かなくなった。

雨は降っていない。水たまりも踏んでいない。それでも帰宅して靴を脱ぐと、靴底の縁に川の匂いがした。青臭く、少し錆びたような匂いだ。玄関マットには濡れた跡が残らない。ただ、靴を置いた床の真下から、ときどき、こぽ、と空気の抜ける音がした。

次にそこを通ったのは三日後だった。

札はもう、水面に触れていた。

いや、触れているのではない。水が札の位置に合わせて、細く持ち上がっていた。橋脚の表面に沿って、幅十センチほどの水だけが垂直に立ち、札の下端を支えている。川全体は流れているのに、その部分だけは固い膜になって、低いところから何かを押し上げているようだった。

男性は怖くなって引き返そうとした。

そのとき、頭上の配管から一滴だけ水が落ちた。

普通なら水面に落ちるはずだった。だがその滴は途中で止まり、ゆっくり上へ戻った。橋の裏へ吸い込まれるように、逆さに昇っていった。男性が見上げると、鉄骨の陰に、濡れた小さな足跡がついていた。

足跡は天井側にあった。

子どものものほど小さい。だが向きがおかしい。水面から橋の裏へ上がってきたのではなく、橋の裏を歩いて、橋脚の札の上まで降りてきたように並んでいる。足跡の間隔は不自然に狭く、片足ずつではなく、両足をそろえたまま少しずつ滑ったようだった。

男性は走ってその場を離れた。

それ以来、近道は使っていないという。

ただ、その橋の下を別の日に通った知人がいる。知人は何も知らずに水辺を歩き、右の橋脚を見た。白い札はまだあった。しかし表示は「だー69」になっていた。

貼り替えられた形跡はない。

水面には七本の白い横線が残っていた。橋脚のコンクリートにではなく、水そのものの表面に、乾いた傷のように浮いていたそうだ。波が来ても消えず、川の流れに押されても動かない。

そして、その横線のいちばん下だけが、見るたびに少しずつ長くなっていた。

知人は念のため写真を撮った。あとで確認すると、橋脚の札も、水面の線も写っていなかった。

かわりに、画面の下端にだけ、濡れた足裏のような楕円が二つ写っていた。

撮った本人の足元ではない。

水の中から、こちら側の岸へ上がる直前の位置だった。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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