始発が動き出すより少し前、駅ビル前の通路を毎朝通る人のあいだで、妙な噂があった。
黒い柱が並ぶあの屋根の下は、まだ街が完全に起きる前なのに、どこかだけ先に目を覚ましているように見える。白い天井の丸い照明が順番に灯っていく時刻は毎日ほとんど同じなのに、中央付近にある、何も付いていない丸い穴だけは、いつ見ても暗いままだった。工事の途中で器具を外した跡だろうと、誰も気にしていなかった。最初の異変に気づいたのは、駅ビルの清掃に入っていた年配の女性だったらしい。彼女は、まだ人通りの少ない時間に床を拭いていると、上から水滴みたいな冷たいものが頬に当たることがあると言った。雨ではない。見上げても天井は乾いている。ただ、あの空の丸穴の真下に立った時だけ、首筋へ細い舌を這わせるような冷えが落ちてくるのだという。
その話を聞いた人は皆、似たようなことを笑って流した。駅前なのだから、風の抜け方の問題だろうと。だが、四月に入ってから、その場所を通る人間の数え方がおかしくなり始めた。
朝の通勤客がまばらな時間帯、柱のあいだから見える歩行者は、遠目にはたしかに二人か三人いる。だが、屋根の下へ入った瞬間に、足音だけが一つ増える。乾いた床を打つ靴音が、必ず人影の数より一本多い。しかもその余分な一歩は、決して急がない。誰かの少し後ろ、同じ速さ、同じ間隔でついてくる。振り向いてもいない。ガラスにも映らない。それでも音だけは、黒い柱の表面を撫でるように近づいてくる。
気味が悪いと話題になった頃、通路脇の案内板のガラスに、奇妙な曇りが出るようになった。朝の冷え込みのせいにしては、曇る位置が不自然だった。人の背丈より少し高いあたりに、縦長の細い筋が一本だけ残る。拭けば消える。だが翌朝にはまた同じ位置に浮く。まるで、ガラスのすぐ前に立った誰かの肩口だけが、毎朝そこへ寄りかかっているように。
そのころから、あの場所を通った人の何人かが、同じ訴えをするようになった。
駅に入ってから、自分の行動のどこかが一つ抜けるのだ。
改札を通った記憶はあるのに、鞄の持ち手を持ち替えた感覚だけがない。ホームへ向かったはずなのに、階段を上り始めた最初の一段だけ覚えていない。スマートフォンの画面を見たはずなのに、その一瞥だけが切れている。
忘れ物というほど大きくはない。だが確実に、自分の朝の一部分だけが削られている。
ある会社員の男が、その異変を試そうとして、始発前に駅ビル前で立ち止まり、スマートフォンの録音を回した。誰もいない時間に、あの空の穴の真下へ立ち、自分の足音だけを記録して帰ったのだという。
再生すると、最初は何もおかしくなかった。遠くの車の音、信号の電子音、自分の呼吸。だが、通路の中央へ差しかかったところで、録音の奥に女とも子どもともつかない、湿った吐息のようなものが混じっていた。そしてそのすぐあと、男自身の声で、こんな短い一言が入っていた。
「一本、足りない」
男はそんな言葉を発した覚えがなかった。
翌日から、その男は出勤しなくなった。失踪ではない。家には帰っていたし、連絡もついた。ただ、駅へ向かおうとすると決まって、自宅の玄関で片足だけ靴を履いたまま動けなくなるのだという。足りないのは自分の足音ではなく、自分の片脚のほうだと気づいてしまったからだ、と後で家族に話したらしい。
それでも本当に恐ろしいのは、その後だった。
駅ビルの管理会社が不審に思い、防犯カメラを確認した。早朝の映像を何日分か遡ると、黒い柱のあいだを通る人々の様子は普通に見える。だが問題の場所を人が横切る瞬間だけ、画面上部の時刻表示が一秒ぶん止まる。その一秒のあいだ、通行人の身体は少しだけ前へ進んでいるのに、頭上の照明だけがまばたきみたいに一つ減る。点いていた丸灯が一つ消え、暗いはずの空の穴の内側に、濡れた眼球のような反射が浮くのだという。
管理会社はすぐに点検を依頼した。脚立を立て、若い作業員が天井の穴を覗き込んだ。配線でも残っているのかと思ったらしい。ところが彼は穴の縁に顔を近づけたまま、しばらく黙り込み、降りてくるなりひどく青ざめて、仕事を中断した。
中に何があったのかと聞かれても、最初は答えなかった。
帰る前になって、やっとこう言ったそうだ。
配線も金具もなかった、と。
その代わり、暗い奥の内側が、何度も瞬きをしたみたいに濡れていた、と。
点検の翌朝、通路の床に小さな水の輪が落ちていた。
雨ではない。清掃前の乾いた床の中央、あの穴の真下にだけ、靴底ほどの大きさで丸く濡れていた。しかも一つではなく、等間隔に四つ。柱から柱へ、人が歩く歩幅そのままの距離で並んでいた。最後の輪だけが不自然に深く、中心が黒ずんでいたという。
その日から、あの場所の照明は点灯順が変わった。
端から順に灯るはずのものが、今は一つ飛ばしで点く。誰かが通るたび、空の穴に近い灯りだけが最後まで残り、しばらく遅れてから、ぬるりと点くようになった。朝の通行人の中には、その瞬間を見てしまった者もいる。灯りがつくのではない。天井の内側で閉じていたものが開き、その奥の色が一瞬だけ漏れて見えるのだと。
噂を確かめようとして、わざわざ早朝に見に来る者もいた。だが、二度と来なくなった人間が何人かいる。消えたわけではない。ただ皆、あの通路を避けるようになり、理由を聞くと決まって首の後ろを押さえる。そこに、細い水の筋が落ちた感触だけが、何日経っても乾かないのだという。
今でも駅ビル前の黒い柱の下を歩く時、足音は人影より一本多いことがある。
その余分な一歩は、追い越さない。離れない。頭上の空いた丸穴の真下まで来た時だけ、ぴたりと重なる。
そして重なった瞬間、自分の朝のどこかがまた一つ、なくなる。
次に削られるのが記憶で済めばまだいい。
先に失くした人の中には、会社でも家でもない場所へ向かうようになった者がいる。皆、決まってこう言うそうだ。
駅へ入る前に、もう一本ぶん、自分を返しに行かなければならない、と。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

