隣を走る、もうひとり

ウラシリ怪談

十月十二日、スポーツの日。かつて「体育の日」と呼ばれていた祝日に、ある町の公共体育館が無料開放されたそうです。温水プールも無料で利用でき、体育館では子ども向けの運動教室が開かれることになっていました。ただし、上履きは各自で持参する決まりだったといいます。

その日の朝、体育館の清掃を担当する女性が、奇妙なものを見つけました。誰もいない競技場の中央で、床を軽く踏むような音がしていたのです。とん、とん、とん……。足音は三歩進んで止まり、少し間を置いて、また三歩だけ進みました。床には何の跡もなく、音のする場所に人影もありませんでした。

開館すると、家族連れや高齢者が次々と訪れました。混雑によっては入場を制限することもあるため、受付は朝から慌ただしかったそうです。その中に、小学校三年生くらいの男の子と、母親の二人連れがいました。男の子は新しい白い上履きの入った袋を胸に抱え、体育館の入口で立ち止まっていたといいます。

男の子は走ることが苦手でした。前年の運動会で転んで以来、人前で走ろうとしなくなっていたそうです。母親が無料の運動教室を見つけ、一緒に体を動かそうと誘ったのですが、当日になっても本人は乗り気ではありませんでした。それでも、見学だけならと約束して来たのだといいます。

更衣スペースで上履きに履き替えた時、小さな異変がありました。男の子が右足の靴を履こうとすると、まだ足を入れていない靴のかかとが、ぺこりと内側へ沈んだのです。誰かが先に足を入れ、体重をかけたような動きでした。男の子は母親を見ましたが、母親は荷物をしまっていて気づかなかったそうです。

運動教室では、速さを競うのではなく、好きな速さで体育館を一周する時間が設けられました。子どもたちが次々と走り出す中、男の子だけは壁際に立っていました。すると、隣の誰もいない床から、例の足音が聞こえてきたのです。

とん、とん、とん。

音は、男の子が一歩踏み出すのを待つように止まりました。男の子が右足を前へ出すと、少し遅れて、隣から同じ足音がしました。もう一歩進むと、また一歩。足音は決して先へ行かず、男の子の歩幅に合わせてついてきたそうです。

最初はゆっくり歩いていました。けれど、周囲の子どもたちが楽しそうに走るのを見て、男の子は少しだけ足を速めました。隣の音も速くなります。ところが男の子がつまずきかけると、隣から床を強く踏みしめる音がして、不思議と体が前へ倒れなかったといいます。

母親は壁際からその様子を見ていました。息子が走る姿を見るのは久しぶりでしたが、ひとつ気になることがあったそうです。男の子は何度も、誰もいない左側をちらちらと見ていました。そして時折、隣の誰かを待つように歩調を緩めていたのです。

一周を終えた時、男の子は母親に小さな声で尋ねました。

「お母さん。ここ、二人で走ってもいいんだよね」

母親は、もちろんだと答えました。すると男の子は少し考えてから、「じゃあ、もう一周してくる」と言ったそうです。二周目は、最初よりずっとゆっくりでした。途中で何度も立ち止まり、隣の空間に向かって「大丈夫、待ってるよ」と話しかけていたといいます。

その頃、受付を離れて競技場を見回っていた清掃担当の女性も、あの足音を聞いていました。男の子が歩くたびに、その左側からもうひとつ音がするのです。しかし、今度の音は朝とは違っていました。三歩で止まることなく、四歩、五歩と続いていたそうです。

教室が終わる頃、男の子は母親のところへ戻ってきました。額には汗が浮かんでいましたが、表情は穏やかでした。母親が楽しかったかと尋ねると、男の子はうなずき、「あの子、最後まで転ばなかったよ」と答えたといいます。

母親が「あの子って誰?」と聞いても、男の子は名前を知りませんでした。

「見えなかったけど、ずっと一緒だった。最初は三歩しか歩けなかったんだよ。でも、だんだん歩けるようになったんだ」

そう言って、男の子は自分の上履きを指さしました。靴のかかとが、最初に履いた時より少し柔らかくなっていたそうです。母親は、新しい靴だから馴染んだのだろうと思いました。それ以上、息子に尋ねることはしなかったといいます。

その日の夕方、閉館後の体育館で、清掃担当の女性はもう一度あの足音を聞きました。競技場はすでに無人で、照明も半分ほど消されていました。

とん、とん、とん、とん。

朝には三歩で止まっていた音が、今度は途切れることなく続いていました。ゆっくりと競技場を横切り、入口の手前で止まります。それから、何かを待つような長い沈黙がありました。

最後に聞こえたのは、二人分の足音だったそうです。

一方、帰宅した男の子は、上履きを洗おうとしていた母親から声をかけられました。新品だったはずの靴の中敷きに、奇妙なへこみがあったのです。表面には男の子自身の足形が残っていました。しかし、中敷きを取り外してみると、裏側にも別の足形が浮かんでいました。

それは男の子の足より、ひと回り小さなものでした。五本の指の形まで、はっきりと押し出されていたといいます。中敷きの裏側は平らな靴底に接しているだけで、誰かの足が触れる場所ではありません。しかも、その小さな足形は両足とも、かかとの部分だけが深く沈んでいました。

母親は不思議に思いましたが、男の子には何も言いませんでした。本人はすでに疲れて眠っており、枕元には翌日の学校で使う体操着がきちんと畳まれていたそうです。

それから数週間後、男の子は学校で行われた持久走の練習に、久しぶりに参加しました。順位は最後のほうでしたが、一度も立ち止まることなく走り終えたといいます。家に帰ると母親に、「今度は一人でも走れたよ」と報告したそうです。

ただ、その日から、体育館で履いた白い上履きには、もうひとつ変化が起きていました。

中敷きの裏側に残った小さな足形が、少しずつ大きくなっていたのです。

母親が最後に確かめた時、その足形は男の子自身の足と、ほとんど同じ大きさになっていたそうです。けれど、男の子が気にする様子はありませんでした。

ある晩、母親が何気なく「あの体育館の子は、どうしたのかな」と尋ねると、男の子は少し首をかしげて、こう答えたといいます。

「もう大丈夫なんじゃないかな。だって、最後は僕より速かったから」

それ以来、男の子があの足音を聞いたという話はありません。

ただ、体育館の清掃担当の女性によると、毎年スポーツの日が近づく頃になると、開館前の競技場で、誰かが走る音がすることがあるそうです。

以前のような、たどたどしい三歩ではありません。

まっすぐに、軽やかに、床を蹴る音。

そして、その音が聞こえた朝には、入口の上履き置き場に、なぜか小さな空間がひとつだけ残されているといいます。どれほど混雑しても、そこに靴を置く人はいないのだそうです。

誰がその場所を空けているのかは、今もわかっていません。

もしかすると、誰かがまた、一歩目を踏み出すのを待っているのかもしれません……そんな話を聞きました。

この怪談は、以下の記事をきっかけに生成されたフィクションです。

10月12日(祝)スポーツの日 体育館と温水プールを無料開放!!

10月12日(祝)スポーツの日 体育館と温水プールを無料開放!!:練馬区公式ホームページ

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