三席目

写真怪談

うちのビルの屋上休憩スペースは、昼でも妙に人気がない。

金網の手すりに挟まれた短い階段を上がると、木の床の先に小さなテーブルと椅子が二脚だけ置いてある。その向こうの壁一面には、女の顔の壁画が描かれていた。片目と鼻先だけが見える、不機嫌なのか無表情なのか判別しにくい顔で、黒い髪の線だけが風に煽られたみたいに壁いっぱいへ流れている。
晴れた日は明るい。なのに、あそこだけは日陰の中へ視線を置き去りにしたような落ち着かなさがあった。

最初に気づいたのは、昼休みにコーヒーを持って上がった日だった。

片方の椅子だけが、朝より少し後ろへ引かれていた。掃除の人は毎朝きっちり揃えるし、風で動く重さでもない。なのに、その座面には菱形の浅い凹みが並んでいた。金網に頬を押しつけたときに付くような跡だった。指で撫でると消えるのに、手を離すとまた同じ網目がじわっと浮いた。

次の日、椅子はまた引かれていた。

今度はテーブルの手前に、誰かの肘が長く触れていたようなぬるい帯が残っていた。日向の熱ではない。人肌が離れたあとの、嫌に生っぽい温度だった。さらに、壁画の真下の床にだけ、白い塗料の粉が細く落ちていた。見上げても壁に剥がれは見えない。それなのに、椅子の背もたれの縫い目には、黒い線が一本だけ入り込んでいた。髪の毛ではない。乾いた塗料が、細く裂けたみたいな筋だった。

三日目には、椅子の向きまで変わった。

二脚とも、ただ向かい合う角度ではなくなっていた。互いに少しずつ外へ開き、テーブルの一辺だけがきれいに空けられている。そこへもう一脚差し込めば、三人で囲む形になる。誰かの悪戯だと思って戻したが、昼に上がると、また同じ角度へ戻っていた。
空いた一辺の床板だけ、妙に艶が出ていた。椅子の脚を引きずった擦れではない。重みのあるものが、そこへ何度も置かれては持ち上がったような、四角く鈍い光り方だった。

気味が悪くなって、その日は私は片方の椅子に座ってみた。

向かいの空席は、誰もいないのに時々小さく軋んだ。こちらがカップを置くと、一拍遅れて、向こうも肘をつくように鳴る。目を上げるたび、壁画の片目が金網越しにこちらを見ていた。最初からそういう絵のはずなのに、その日はどうしても違って見えた。壁に描かれた目ではなく、空けられた三席目の、その向こうから見返している目だった。

席を立って腕を見ると、前腕の内側にだけ菱形の跡が並んでいた。
私は金網に触っていない。

その日から、昼を過ぎると二脚の角度は必ず“三人で囲む形”になった。清掃担当の人に聞くと、顔をしかめてこう言った。

「撤去しようとしたこともあるんです。でも翌朝には、元の位置に戻ってるんですよ。二脚だけ、ちゃんと」

冗談に聞こえなかった。

数日後、管理会社が屋上を閉鎖した。安全確認のためという名目で、テーブルも椅子も運び出され、壁画の上には白い下塗りまで重ねられた。これで終わると思った。

終わらなかった。

閉鎖の翌日、私は社内の打ち合わせスペースでひとり昼食をとっていた。丸テーブルに椅子が二脚だけ。屋上と同じ、向かい合わせの配置だった。気づくと、向かいの椅子が少し後ろへ引かれていた。誰も触っていないのに。
立ち上がって戻そうとしたとき、座面に菱形の凹みが浮いているのが見えた。布張りの椅子なのに、金網の跡だけがくっきり出ていた。テーブルの縁には、見覚えのあるぬるい帯が残っていた。

その瞬間、壁際のガラスに映った席の数が合わないことに気づいた。

実際には椅子は二脚しかない。
けれど反射の中では、テーブルが三方から囲まれていた。
私の席。
向かいの空席。
そして、空けたはずの一辺にだけ、背もたれのない“何か”が、きちんと腰を下ろしていた。

輪郭は人の形より少し薄く、肩から上だけが黒い線の集まりみたいに揺れていた。髪のようにも見えたし、壁画の筆致がそのまま剥がれて座っているようにも見えた。顔は映らない。けれどそいつが座った瞬間、向かいの椅子が、私へ席を譲るみたいに、もう半歩だけ後ろへ引かれた。

私は食べかけをそのままにして逃げた。

それから昼休みになると、社内のどこに座っても同じことが起きる。
会議室でも、給湯室の丸椅子でも、外のベンチでも、私が腰を下ろすと向かいの席が少しだけ引かれる。二人で向き合うための角度ではない。もう一人を中へ入れるための、あの開き方だ。
いちばん嫌なのは、誰かと一緒に座ったときでも起きることだ。相手は気づかないまま話しているのに、私の視界の端でだけ、空いていないはずの側へ席がひとつぶん空いていく。

今日も昼前、隣の部署の人に声をかけられて、打ち合わせテーブルについた。
四人掛けに、私たちは二人。
なのに私がノートを開いた途端、残りの二脚が同時に、ぎ、と鳴って半歩ずつ引かれた。
向かいの人は何も聞いていない顔で笑っていた。

今、私の正面には誰もいない。
それでもテーブルの木目の上にだけ、濡れた指でなぞったような半円が三つ並んでいる。
ひとつは私のカップ。
ひとつは向かいの湯飲み。
そしてもうひとつは、まだ何も置かれていない席の前で、さっきから少しずつ濃くなっている。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

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