前夜の酒が抜けきらず、昼になっても胃の底だけが重かったので、温かいものよりはましだろうと、その蕎麦屋でもりそばを頼んだ。
卓上の水だけ、最後まで揺れていた。
その蕎麦屋の昼は混んでいたが、騒がしいわけではなかった。客は黙って食べ、店員は盆を置くとすぐ奥へ戻る。赤いせいろに盛られたもりそば、白い丼のミニ鳥丼、黒いつゆの入った猪口、刻み葱の小鉢。水のグラスだけが、誰も触れていないのに、細かく震えていた。
箸を割ると、そばの上に乗っていた一本が、ほかの麺より少し太く見えた。茹でむらではない。指で摘まれたように、途中だけ平たく潰れている。気にせず持ち上げると、その一本だけがせいろの底に貼りつき、束の下から、ぬるい湯気ではなく、濡れた鳥小屋のような匂いが上がった。
鳥丼の肉は照りよく並んでいた。けれど一切れだけ、皮の表面が妙に白かった。脂が固まったのかと思ったが、箸で押すと、そこだけ肉が押し返してこない。焼けた鶏肉のはずなのに、羽の根元を撫でたときのような、乾いたざらつきが箸先に残った。
つゆにそばを浸した瞬間、猪口の黒が少し盛り上がった。
液体のはずなのに、表面がくちばしの先みたいに尖り、麺の端をついばんだ。反射的に箸を引くと、そばの先だけが短くなっていた。切れたのではない。噛み取られたように、断面がふやけて丸い。口元へ運ぶ前から、奥歯の裏に醤油の味が広がった。
隣の席の客は何も見ていなかった。店員も普通にそば湯の急須を運んでいる。だが水のグラスだけは、さっきより大きく揺れていた。水面には天井の蛍光灯ではなく、白い羽の裏側のようなものが映っていた。
食べるのをやめ、盆をそのままにして立った。勘定を済ませるあいだ、背後で小さく啜る音がした。誰かがそばを食べている音ではない。猪口の底で、何かが濡れた嘴を開閉している音だった。
外へ出てからも、指先につゆの匂いが残っていた。
駅のトイレで手を洗った。石鹸を使い、爪の間までこすった。それでも右手の親指と人差し指だけが、蕎麦つゆではなく、濡れた鳥小屋のような匂いを放っていた。
財布にしまおうとして、レシートに目が止まった。
さっき店員から受け取ったばかりの紙だった。印字された金額の横に、黒いつゆが染みたような跡が三本、並んでいる。
鳥の足跡に見えた。
ただ、向きが逆だった。紙の上を歩いた跡ではなく、紙の内側から、何かが足をかけた跡のようだった。
捨てようとして、駅のゴミ箱の前で一度だけ振り返った。
右手の指先に、また匂いが戻っていた。
レシートは乾いている。
それなのに、三本の跡だけは、指で触れるとまだ温かかった。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

