関東郊外のある駅前に、車道をまたぐ古い歩道橋がある。駅と商店街を結ぶため朝夕はそれなりに人が通るが、昼間は驚くほど静かになる。白っぽいコンクリートの上に細い金属製の手すりが続き、途中に赤茶色の街灯が一本立っている。曇った日は、その街灯だけが空へ突き出した杭のように見えるという。
数年前、その歩道橋について、駅前の施設管理を請け負う会社へ妙な連絡が続いたことがあった。「手すりの外に人がいる」というものだった。転落事故を心配した通行人からの通報だったが、作業員が駆けつけるころには誰もいない。警察にも駅にも、そこから転落した人の記録はなかった。
三度目の通報があった日の夕方、施設管理の作業員が一人で確認に向かった。雨は降っていなかったが、空一面に低い雲が広がり、駅前なのに妙に音が遠かったそうだ。階段を上がると歩道橋には誰もおらず、湿った風だけが手すりの間を抜けていた。
中央の街灯まで半分ほど来たところで、右側の手すりの向こうに肌色のものが見えた。
最初は、下の道路を歩いている人の顔が偶然見えたのだと思った。だが高さがおかしい。歩道橋の床とほぼ同じ位置に、人間の目だけが浮いていた。
作業員が立ち止まると、その目も止まった。
隣の手すりの隙間には鼻が見えた。さらに隣には口。その次には耳と、黒っぽい髪。その向こうには肩らしきものがあった。ひとりの人間の顔や身体が、縦に細く切り分けられて、別々の隙間へ差し込まれているように見えたという。
その人影は、手すりの隙間ごとに分かれていた。
作業員は手すりから離れ、上から外側を覗き込んだ。そこには何もいない。真下を車が通り過ぎ、はるか下に歩道と植え込みが見えただけだった。
ところが腰を落とし、もう一度手すり越しに見ると、顔の断片はまだあった。
しかも位置が変わっていた。
さっき目が見えていた隙間には頬があり、鼻のあった場所には白目があった。口は二つ先へ移っている。それぞれは別々に動いているわけではなく、作業員が視線を外して戻すたび、人間一人ぶんの身体を作り直すように並び替わっていた。
気味が悪くなり、作業員は駅側の階段へ戻ろうとした。
金属が、小さく鳴った。
振り返ると、一番端にあった髪が二つ内側の隙間へ移っていた。その次に目を逸らしたときには、口も近づいていた。人影そのものが歩くのではない。身体の断片だけが、隙間から隙間へ順番に移りながら、こちらへ来ていた。
作業員は早足になった。しかし中央の街灯まで戻ったところで、右手首に冷たいものが触れた。
手すりの隙間から、指が出ていた。
腕は見えなかった。肘も手の甲もない。ただ五本の指先だけが、それぞれ別の隙間から一本ずつ突き出していた。間隔は人間の手ではあり得ないほど広い。それなのに五本が同時に曲がり、作業員の手首へ巻きついた。
作業員が腕を引くと、指は抵抗しなかった。皮膚に触れたまま細長く伸び、そのまま金属の隙間へ吸い戻されたという。
その瞬間、街灯の根元で大きな軋みがした。
作業員はそちらを見た。
街灯のすぐ外側に、一人の人間が立っていた。
今度は分かれていなかった。頭も肩も胴体もある。灰色がかった服を着た細身の人影で、手すりの外、足場などない場所に直立していた。顔だけが異様に平たく、縦に何本もの筋が走っていた。
手すりの跡だった。
額から顎まで、金属棒と同じ幅の窪みが等間隔に刻まれている。その窪みの間だけに皮膚が盛り上がり、目も鼻も唇も、細長い帯へ切り分けられていた。
作業員は顔を見続けることができなかった。
次に視線を戻したとき、人影の左半分が消えていた。
正確には、消えたのではない。
街灯より手前の手すり、その隙間の一つ一つに、左目、左耳、肩、腕、脇腹が移っていた。人影は身体を細く分けながら、金属の棒と棒の間を通り抜けていた。
外側から、歩道橋の内側へ。
作業員は走った。階段へ着くまで振り返らなかったという。背後から足音は聞こえなかった。ただ走るたび、後方で金属棒が一本ずつ弾かれるような、高い音だけが続いた。
階段を下り、道路へ出てから初めて右手首の痛みに気づいた。袖をまくると、皮膚に細長い紫色の痣が五本あった。指の跡ではない。手首を縦方向へ横切る、まっすぐな線だった。
翌朝、別の作業員二人を連れて歩道橋を調べた。
街灯の周囲に破損はなかった。手すりにも曲がりや新しい傷は見つからない。ところが念のため図面と照合したところ、妙なことが分かった。
街灯から階段までの区間には、手すりの縦棒が三十六本あることになっていた。
現場には三十七本あった。
増えた一本を特定しようとしたが、できなかった。どの棒にも同じ程度の色褪せと錆があり、溶接部分も古い。新しく取り付けた形跡のあるものは一本もなかった。間隔を測ると、三十七本すべてがほぼ均等に収まっていた。
つまり一本だけ増えたのではない。
その区間全体が、いつの間にか三十七本ある状態へ作り直されていた。
作業員が遭遇した件については、会社の正式な事故報告には残されなかった。ただし手首の痣だけは写真に撮られている。五本の紫色の線の間隔を測ると、問題の歩道橋にある手すりの隙間とほぼ一致していたそうだ。
痣は一か月ほどで薄くなった。
だが一本だけ消えなかった。
手首の内側に、細い白い線が今も残っている。その部分だけ産毛が生えず、冬でも汗をかかないという。
歩道橋そのものは現在も使われている。
その後の定期点検で、手すりの本数をわざわざ数える者はいなかったらしい。ただ、事情を知る作業員が数年前、一度だけ確認したことがある。
街灯から階段まで。
三十八本あった。
彼はそれ以来、歩道橋を下から見上げないようにしている。
手すりの隙間を順番に目で追ってしまうと、ときどき一つの顔が、何本にも細く分かれてこちらを見下ろしているからだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


