昼でも、あの高架下だけは暗い。
川というより、ビルと道路の隙間に残された細い水路だった。頭上には太い橋桁が腹のように張り出し、その下を黒い鉄骨が何本も横切っている。右岸だけは新緑が明るく、ビルの窓が水面に細く揺れているのに、高架の真下だけは、光が届かないのではなく、光がそこで折り畳まれているように見えた。
近くの会社に勤めていた男は、昼休みにその水路沿いをよく歩いた。真夏でも風が通らず、水は動かない。だが一度だけ、欄干にもたれた瞬間、底の方から冷気が上がってきたという。生臭さはない。ただ、濡れたコンクリートを長いあいだ密閉していたような、古い階段室の匂いがした。
最初の異変は、水面の反射だった。
正面のビルは、水に映ると当然、逆さになる。窓の列も、手すりも、空の白さも、多少歪みながら下へ伸びる。ところがその日だけ、高架の影の境目で反射が一度、縦に切れていた。切れ目の向こうには同じビルが続いているのに、階数が一つだけ多い。実物にはないはずの、窓のない灰色の階が、水の中に挟まっていた。
男は疲れているのだと思い、目をこすった。すると、その灰色の階は消えた。代わりに、水面の中央へ細い線が残っていた。油膜ではない。波でもない。ちょうど裁ちばさみで黒い布を切った跡のように、光だけがそこで途切れていた。
それから数日、男はそこを避けた。だが月末の残業明け、終電を逃して歩いて帰る途中、どうしてもその水路沿いを通ることになった。
夜の高架下は、昼より明るかったという。街灯のせいではない。水面が、下から白く照っていた。ビルの窓も、木々も、橋桁も映っていない。ただ高架の裏側だけが、異様にはっきり水の中にあった。鉄骨の斜めの線、コンクリートの染み、排水の跡。その全部が、実物より近かった。
男は、頭上を見上げた。橋桁は暗く、何も動いていない。
水面を見下ろすと、そこには高架の裏側に、もう一本だけ鉄骨が増えていた。実際の構造にはない、斜めに渡された黒い梁。その梁の上を、濡れた足跡が点々と進んでいた。裸足だった。小さくも大きくもない。人ひとり分の足跡が、水の中の高架を、ゆっくり奥へ向かって歩いている。
音はしなかった。
しかし足跡が一つ増えるたび、男の足元の欄干がかすかに冷えた。携帯の画面を見ると、時刻は二十三時四十八分で止まっていた。電波も、通知も、バッテリー表示もそのままなのに、秒だけが進まない。
男は逃げようとした。だが水面の足跡が、ふいに止まった。次に増えた一歩は、梁の上ではなかった。水面に映った欄干の、こちら側だった。
反射の中で、男のすぐ隣に、誰かの腕が置かれていた。実際の欄干には何もない。水の中にだけ、濡れた肘があり、指があり、手すりを握っている。顔は映っていなかった。ただ、男自身の反射の肩が、少しずつ横へ押されていた。
気づくと、男は水路沿いの遊歩道に尻餅をついていた。携帯の時刻は二十三時四十九分。たった一分しか経っていない。服も靴も濡れていない。けれど右手の指先だけが、泥水に浸けたように黒く冷えていた。
翌朝、明るくなってから同僚と現場へ戻ると、水面は普通に濁っていた。ビルの反射も、木の影も、高架の裏側も、写真で見るような都会の水路そのものだった。
ただ、欄干のコンクリートに、乾いた黒い筋が一本残っていた。
誰かが濡れた手で握ったような跡ではない。指の跡は、外側からではなく内側からついていた。水路の方からこちらへ這い上がろうとした手が、欄干の向こう側を掴み損ねたように、五本の細い黒ずみが、上へ伸びていた。
それ以来、男は高架下の水面を見ないようにしている。
ただ、雨の降らない日でも、あの欄干の一部だけが黒く湿っていることがあるという。しかも最近は、その五本の跡の少し横に、もう一本、薄い指のような染みが増えているらしい。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


