夕方の住宅地の細い路地に、赤い支柱で持ち上げられた古い巣箱が立っていた。
人の家をそのまま縮めたような木の箱で、錆びた波板の屋根が二つ、大きい丸穴と小さい丸穴がひとつずつ開いている。鳥のためのものにしては傷みすぎていて、けれど捨てられているわけでもない。細い路地を通るたび、私はその穴だけが妙に黒いことに気づいていた。
近所の人は、あれを「借家」と呼んでいた。鳥が入るからではない。入るものが、いつも少しだけ足りないからだという。
最初の異変は、雨上がりの夕方だった。大きいほうの穴から、洗いたての畳のような匂いがした。外なのに、狭い部屋を閉め切ったあとの匂いだった。私は覗き込まなかった。ただ、穴の奥で、誰もいないはずの薄い床が、夕方の光を受けているのを見た。巣箱の奥行きではありえない距離だった。
翌朝、自分の部屋の押し入れが浅くなっていた。
気のせいだと思った。けれど布団をしまうと、いつも少し余っていた奥の空間がない。壁紙の隅には、細い木屑がついていた。あの巣箱と同じ、灰色に枯れた木の粉だった。
それから通るたび、巣箱の穴は違う匂いを吐いた。炊飯器の湯気。夏の洗面所。古い衣装ケースの防虫剤。どれも私の部屋の中から、一晩ずつ薄く抜けていく匂いだった。
三日目には、小さいほうの穴の前にある止まり木に、白い埃が積もっていた。指で払うと、埃は落ちず、畳の目のような細い模様を作った。その晩、部屋のカーペットの端に、畳一畳ぶんの四角い跡が浮いた。私は畳の部屋になど住んだことがない。
怖くなって、翌朝、丸穴に黒いテープを貼った。
仕事から戻るころには、テープは剥がれていた。剥がれ落ちたのではない。私の部屋の玄関ドアの覗き穴の内側に、同じテープが貼られていた。外を見るための穴が、部屋の側から塞がれていたのだ。
その夜、私は眠れず、明け方に路地へ出た。
巣箱は薄青い朝の中にあった。赤い支柱だけが、やけに新しい傷をつけている。上から下へ、爪で測ったような白い線が何本も走っていた。昨日までなかった線だ。私の部屋の柱にも、同じ高さに同じ傷があった。
大きい丸穴の奥で、電気が点いた。
豆粒ほどの天井灯だった。ゆっくり揺れていた。私の部屋の照明と同じ、片方だけ少し黄ばんだ丸い傘だった。
私はそこではじめて覗いてしまった。
穴の中に、私の部屋があった。正確には、部屋の奥だけがあった。机のない机跡、布団のない布団のへこみ、壁に掛けていないカレンダーの薄い日焼け跡。部屋そのものではなく、部屋から抜き取られた「居た感じ」だけが、小さな木の家の奥に畳まれていた。
背後で、遠くの家の窓が一つ灯った。
振り向くと、いつもの住宅地だった。けれど路地の家々の窓が、どれもほんの少しだけ丸く見えた。四角い窓の角が、内側から削られているようだった。
今もその巣箱は、赤い支柱で立っている。
大きいほうの穴は黒い。小さいほうの穴も黒い。ただ雨のあとだけ、止まり木の下に細い木屑が落ちる。木屑は風で散らない。よく見ると、部屋の間取りのように四角く並んでいる。
このごろ私の部屋では、夜になると壁の一部が少しだけ冷える。
そこには何もない。穴もない。けれど朝、冷えた壁の下に、錆びた屋根の赤茶けた粉が、ほんの少しだけ積もっている。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

