商店街のはずれに、黒い布で「酒ケーキ」と大きく書かれた店先がある。
昼間はなんでもない。古い屋根、配線だらけの壁、自販機、左を指す酒蔵の看板。けれど、近所で働く私の同僚は、そこを通るたびに甘い匂いを嗅ぐようになった。最初は酒粕の香りかと思ったそうだ。
おかしいと思ったのは、風のない日に「ケ」の字だけが揺れていたからだった。
次の日、彼の革靴のつま先に白い粉がついていた。砂糖のようで、払っても払っても落ちない。昼休みにまたそこを通ると、黄色い箱型の機械の透明な面が内側から曇り、そこに小さく「試食済」と指で書いたような跡が浮かんでいた。
その夜、彼の鞄から、透明な小袋が出てきた。
中身はひと口大のケーキだった。買った覚えはない。袋には値札もなく、代わりに小さな紙が入っていた。
「お代はあとで」
彼は怖くなって、食べずに捨てた。すると翌朝、机の上に同じ小袋が三つ並んでいた。ひとつ増えている。しかも袋の内側には、昨日はなかった茶色い染みがあり、鼻を近づけると、ふわっと強い酒の匂いがした。
それからは早かった。
自販機の取り出し口に粉砂糖が積もる。電気メーターの小窓に「もう一口」と水滴で出る。昼の道路なのに、黒いのぼりの下だけ影が濃く、そこへ並ぶように、見えない人の足先の跡がうっすら残る。
同僚はとうとう、袋を持って近くの店へ駆け込んだ。
店の人は、袋を見るなり「ああ」と妙に納得した顔をした。
「昔ここに、試食を断られると絶対にもう一個渡してくる爺さんがいたんです。亡くなってからも、ときどき出るんですよ」
「やっぱり幽霊ですか」
「いえ、そこまで悪い人じゃないです。おすすめがしつこいだけで」
同僚は震えながら、観念してケーキを食べた。
うまかったらしい。
その日から怪異は止まった。ただ、ひとつだけ痕跡が残った。
黒いのぼりの「酒ケーキ」の下に、翌朝から見覚えのない小さな白文字が増えていたのだ。
「おかわり自由」
同僚は今でもその道を避けている。
怖いからではない。
通るたびに、健康診断の腹囲だけが、なぜか二センチずつ増えるからだ。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。


