都心の高層ビル街にある交差点で、深夜だけ信号を見上げる癖がついた。
そこに勤める友人は、二十階の事務所で夜勤のような仕事をしていた。窓の外には高層ビルの明かりと、工事中のクレーンと、雨でもないのに低く垂れた雲がある。交差点の信号は部屋から少し見下ろす角度にあり、赤く点くと、窓ガラスの右上に小さな丸い光が映った。
最初の異変は、その赤が消えなかったことだった。
外の信号は青に変わっている。車も動いている。なのに、窓に映った赤だけが残っていた。拭いても消えない。ガラスの汚れではなく、向こう側から貼りついたような、薄い赤い膜だった。
友人は疲れ目だと思い、ブラインドを下ろした。すると今度は、ブラインドの細い隙間すべてに赤い点が並んだ。ひとつではない。横一列に、信号の数だけでは説明できないほど、同じ赤が小さく灯っていた。
その夜、残業していたのは友人を含めて三人だった。ひとりが窓際で煙草の代わりにミントを噛みながら、「下、止まってない?」と言った。
見下ろすと、交差点の四方向すべてが赤だった。
車は一台もいない。歩行者もいない。工事現場のクレーンだけが、風もないのに少しずつ角度を変えていた。ブームの先端が、交差点の赤信号を指すように揃っていく。まるで街の上にある長い腕が、そこを押さえつけているようだった。
やがて、信号の赤が強くなった。
強くなった、というより、近づいた。二十階の窓の外にあるはずのない高さで、赤い光がこちらを照らしている。友人が後ずさると、床のカーペットに丸い赤が落ちた。信号機の灯りの形だった。だが窓から入る角度ではない。天井から真下に落ちていた。
三人で廊下へ出た。エレベーターの表示は一階を指しているのに、扉は開いたままだった。中は暗く、奥の鏡面に交差点が映っていた。
いや、交差点ではない。
赤信号を下から見上げる位置だった。
ビルの二十階にいるはずなのに、エレベーターの中だけが信号機の真下につながっている。黒い筐体の底、雨水の跡、古い虫の死骸まで見える。赤い丸の周囲で、何かがゆっくり回っていた。人の顔ではない。鳥でもない。赤を待っているものたちの、湿ったまぶたのような影が、灯りの縁に折り重なっていた。
同僚のひとりが、スマートフォンを向けた。
撮ろうとしたのではない。画面の明かりで中を確かめようとしただけだった。すると端末の顔認証が勝手に反応した。誰も画面を覗き込んでいないのに、ロックが解除された。待ち受けの時刻は、二十三時七分。
その瞬間、廊下の照明がすべて赤くなった。
非常灯ではない。壁も床も、白い扉も、血の色ではなく信号の赤に染まった。止まれ、と言われている気がした。歩くな。降りるな。見上げるな。だが同僚はエレベーターの中へ半歩入ってしまった。
足音はしなかった。
代わりに、交差点のほうで小さくブレーキ音が鳴った。二十階の廊下にいるのに、耳元ではなく、はるか下で。友人が同僚の腕を引いた。体は戻った。けれど靴底だけが、何かに貼りついたように一瞬遅れた。
廊下に戻った同僚の革靴には、白い停止線が一本、横に焼きついていた。
インクでも傷でもない。靴底のゴムがそこだけ白く変質している。左右の靴を揃えると、交差点の横断歩道の幅とぴたりと合った。本人は痛がらなかったが、足首から下が冷たいと言い続けた。
信号は数分後に戻った。エレベーターも普通の箱に戻り、窓に映った赤も消えた。三人は仕事を放り出して帰ったが、翌朝になると、会社のフロアだけ妙な騒ぎになっていた。
窓ガラスの内側に、赤い丸い跡がいくつも残っていたのだ。
どれも信号の灯りくらいの大きさで、触ると少し温かい。清掃業者が専用の薬品で拭いても、跡は薄くなるだけで完全には消えなかった。昼には見えない。だが夕方、街の信号が赤になるたび、窓の中で同じ赤が浮かび上がる。
その赤は、日ごとに増えた。
最初は窓だけだった。次に会議室のガラステーブルに出た。コピー機の読み取り面にも、給湯室のステンレスにも、丸い赤が映るようになった。光源はない。交差点から見えない場所にも出る。まるで、街の赤信号が少しずつ建物の内側へ移植されているみたいだった。
問題の同僚は、三日後に欠勤した。
靴底の白い線が消えない、と電話で言っていた。その線が、朝起きるたび少しずつ上へ上がってくるのだという。くるぶし、すね、膝。皮膚の上に塗られているのではなく、皮膚の下から横断歩道の白が浮いてくる。歩くと、その白い部分だけが地面を待つように固まる。
一週間後、彼は退職した。
最後に会社へ荷物を取りに来たとき、ズボンの裾から見えた足首には、白い線が何本も巻きついていた。友人が声をかけると、彼は「赤が終わらない」とだけ言った。
それきり会っていない。
今でも友人は、あの高層ビル街の交差点で信号待ちをすると、必ず頭上を見ないようにしている。赤信号は下から見るものではない。上からも、横からも、本当は見てはいけない。
ある夜、彼が別のビルの窓からその交差点を見下ろしたとき、赤信号の上に人影のようなものが並んでいたという。
みんな、靴底をこちらへ向けていた。
そして交差点の停止線だけが、いつもより一段、高い場所にあった。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

