自販機の補充をしている知人から聞いた話だ。
その場所は、二台の自販機に挟まれた小さなくぼみになっていて、正面の黒い壁には、鳥居や福神めいた顔、竜や狐面のようなものがぎっしり描かれた絵が掛かっている。足元には、誰かが置いていった飲み物が何本か並んでいた。
最初におかしいと思ったのは、右側の自販機だけ冷却エラーが出たことだった。庫内温度は正常なのに、取り出した商品だけがぬるい。修理業者を呼ぶと、基板にも冷却装置にも異常はないと言われた。
翌週は左側の自販機が同じ症状になった。
妙なのは、ぬるくなるのが必ず、中央の黒壁に近い列の商品だけだということだった。奥の列は冷えている。手前も冷えている。けれど、壁に向いた側だけ、まるで人の手でしばらく握られていたみたいに、缶の表面が生温かい。
知人は補充のたび、黒壁に手を近づけた。すると、壁のほうがわずかに温かかった。日が当たる場所ではない。換気口の熱でもない。黒い塗装の下から、体温だけがじわっと浮いている感じだったという。
三度目の夜、足元の飲み物の位置が変わっていた。
誰かが動かしたのだと思った。けれど床は濡れていて、ボトルを引きずった跡がない。代わりに、黒壁の下から絵の方へ向かって、水の筋が細く伸びていた。普通なら下へ垂れるはずの水が、壁を上っていた。
その水筋は、絵の中の鳥居の下で止まっていた。
知人は気味が悪くなって、置かれた飲み物を片づけた。中身が減っているものはなかった。キャップも開いていない。ただ、一本だけ、ボトルの内側が白く曇っていた。曇りの形が、指に見えた。内側から握ったように、五本分の跡が残っていた。
その夜、自販機から取り出した缶は、どれも冷えていた。エラーも消えていた。
安心したのも束の間、知人が最後に釣り銭口を確認すると、硬貨の代わりに水が溜まっていた。指先を入れると、生ぬるい。水の底に、黒い粉のようなものが沈んでいる。拭き取ると、布に赤と緑の顔料がついた。
壁の絵の色だった。
翌朝、管理会社から連絡があった。中央の絵を外して、壁の清掃をすることになったという。落書きだかアートだか分からないが、汚れがひどい。そういう話だった。
作業員が絵の板を持ち上げると、裏側の黒壁に、びっしりと丸い跡がついていた。
缶の底の跡だった。
大きさの違う円が何十、何百と重なっていて、どれも中央だけが湿っていた。古いものは白く乾き、新しいものはまだ生温かい。まるで、その壁に無数の飲み物が押し当てられ、冷たさだけを吸われたあとみたいだった。
一番下の円の中には、うっすらと文字が浮いていた。
商品名ではない。価格でもない。自販機の表示でもない。
「つめたい」
そう読めたらしい。
板は結局、外されなかった。業者の一人が、絵の裏から人の息みたいな湿気が出ていると言い出して、その場で作業が中止になった。誰も理由を説明しなかったが、それ以降、その二台の自販機には「冷たい商品は販売していません」という貼り紙が出た。
けれど、知人は今もそこを担当している。
最近は、ぬるくなるだけでは済まないという。補充した覚えのない飲み物が、一本ずつ足元に増える。キャップは閉まっている。ラベルもきれいだ。だが中身だけが、買ったばかりの風呂の湯みたいにぬるい。
そして、黒壁の下には毎朝、乾ききらない水の筋が一本残る。
その筋は少しずつ上へ伸びている。
絵の中の鳥居を越え、福神めいた顔の顎を伝い、今では中央の口元まで届いているそうだ。
知人は言っていた。
「たぶん、あれは飲んでるんじゃない。冷たさを覚えてるんだと思う」
その場所の前を通ると、今でも左右の自販機だけは明るい。けれど中央の黒壁は、光を返さない。
ただ、冬でもそこだけが、人肌のようにぬるい。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

