その夜は、さすがに飲みすぎていた。駅前の居酒屋を出ると、白い看板や安い酒の値段を並べた灯りが夜道に浮いていて、青信号の前を自転車が一台横切った。冷たい空気を吸って、ようやく足元が少しだけまともになった。
十歩ほど歩いてから、なんとなく振り返った。今出てきた店を見て、「よく飲んだな」と笑うつもりだった。
店がなかった。
建物は間違いなく同じだった。大きな看板も、植え込みも、路上の立て看板も、隣の階段もある。ただ、私が数十秒前に出てきたはずの場所だけが、継ぎ目のない黄ばんだ壁になっていた。
酔って場所を勘違いしたのだと思い、建物の前まで戻った。店名の入った小さな案内板も残っていた。けれど、その矢印の先は、どう見ても壁だった。
確かめるつもりで手を伸ばした。
指先が壁に触れた瞬間、第一関節まで、何の抵抗もなく中へ入った。驚いて腕を引くと、右手は何かを強く握っていた。
割り箸だった。
濡れた割り箸が一膳。片方には、飲んでいる間ずっと爪で削っていた小さな傷があった。先端には、さっき食べた料理の赤いタレまで付いていた。会計をするとき、その箸が皿の上に残っていたことだけは、はっきり覚えている。
私はそのまま駅まで走った。振り返らなかった。翌朝、酔いが完全に醒めても、割り箸はコートのポケットに入っていた。
今も捨てずに持っている。
あれを見るたびに思う。
あの夜、私は本当に店を出たのだろうか。
それとも、店の外によく似た「こちら側」へ出てしまっただけなのだろうか。
この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

