吹き抜けの内側

写真怪談

都心の大きな商業施設には、待ち合わせに使われる場所がいくつかある。
ガラス張りの入口の脇、見上げると高い吹き抜けになっている一角も、そのひとつだった。夜になると天井の縁に沿って並んだ照明が白く灯り、鉄骨の組み方まできれいに浮かび上がる。人はつい足を止め、ほんの一瞬だけ上を見て、それからまた歩き出す。

最初の異変は、その「ほんの一瞬」のあとに来た。
友人を待っていたある晩、照明が一斉に点いた直後、ひとつだけ遅れて明るくなる灯りがあったのである。
同時に、頭上から、硬い靴底が金網を踏んだような音がした。
コツ。
たった一歩ぶんの音だった。

見上げても、そこに通路はない。あるのは高い位置に組まれた梁と、照明の列と、点検用には見えない細い骨組みだけだ。けれどその日以来、そこを通るたび、同じ音を聞くようになった。
いつも、照明がひとつ遅れて点く。
そして、その真上からだけ、一歩ぶんの足音が降りてくる。

気味が悪くなって、少し離れた場所から人の流れを見ていたことがある。
すると奇妙なことに気づいた。
遅れて点く灯りの真下だけ、人がきれいに避けるのだ。
立ち止まるわけではない。誰も異変に気づいた顔はしない。ただ、そこへ差しかかる直前に、みな半歩だけ横へずれる。まるで無意識に、真下を空けているようだった。

施設の警備員に、あの上を歩けるのかと尋ねたこともある。
「あそこは通れませんよ」
相手はすぐにそう答えた。
「点検は別の経路です。そもそも、見えている骨組みのあたりに人が乗る想定はないです」
言い切ったあとで、警備員は少しだけ視線を上に向けた。そして、それ以上その話をしたくないような顔になった。

雨の夜だった。
閉館のアナウンスが流れ、人の波が薄くなった頃、私はわざと遅れて点く灯りの真下に立った。
見上げると、ざわめきが遠くなる。すぐ横を人が通っているはずなのに、音だけが吹き抜けの外へ押し出され、頭上の暗さだけが近づいてくる。
照明の列のひとつが、また遅れて点いた。
その瞬間、なかったはずの細い通路が見えた。
梁と梁のあいだに、金網の帯のようなものが一筋だけ走っている。人ひとりがやっと通れる幅だ。
そしてその端に、靴の裏があった。

足だけしか見えなかった。
白っぽく乾いた靴底が、こちらへ向けてぴたりと止まっていた。逆さまではないのに、位置がおかしい。誰かが上を歩いているなら、足首も膝も続いて見えるはずなのに、靴の裏だけが梁の陰から突き出ている。
次の瞬間、その足はコツ、と一歩ぶん横へずれた。
遅れていた灯りが、今度はひとつ隣で遅れた。

それから何度か、同じように見上げてしまった。
足音は少しずつ近づいていた。
灯りの遅れる位置も、毎晩、円を描くように移動していく。
吹き抜けの内側を、見えない誰かが一周ずつ歩いているのだと、そのときはもう分かっていた。

最後にそれをはっきり見たのは、雨が強かった夜だ。
閉館後、入口の自動扉が止まり、照明が一度だけ落ちた。すぐに順番に復旧していくはずの灯りが、その夜は半周したところで止まった。
私の真上だけが、暗いままだった。

暗がりの中で、足音がした。
コツ。コツ。コツ。
今度は一歩ではない。確かに歩いている。
見上げた私の頬に、冷たいものが一滴落ちた。雨漏りかと思って触ると、水ではなかった。ざらついた灰色の粉で、鉄の匂いがした。
その粉は一滴では終わらず、靴底の形を崩したような細いかけらになって、ぱらぱらと落ちてきた。

やがて灯りが戻った。
吹き抜けは元のきれいな天井に戻り、上に通路など最初からなかったように見えた。
だが床のタイルには、濡れた足跡が弧を描いて残っていた。
誰かが歩いたなら、床に向かってつくはずの靴跡だった。けれどその跡は逆だった。
踵の輪郭だけが妙にくっきりしていて、つま先はほとんど擦れていない。まるで上から一足ずつ、落ちてきたみたいに並んでいたのである。

清掃員が来る前に、その跡は薄くなった。
拭かれたわけでも、乾いたわけでもない。人が歩いて横切るたび、少しずつ床へ沈みこんでいくように消えた。
ただ、完全には消えなかった。
翌週、その場所を通ったとき、タイルの色がそこだけわずかに鈍く、弧の形にくすんでいるのが見えた。
見上げると、照明の列のひとつが、また一拍だけ遅れて点いた。

いまでもその施設の入口では、待ち合わせの人が何気なく上を向く。
そして、たいていはすぐに目を逸らす。
あの吹き抜けの内側には、帰れなかった誰かの歩く道が、まだ一周ぶんだけ残っている。
遅れて点く灯りは、その足音が次にどこへ来るかを知らせているのだと思う。

この怪談は、実際の写真から着想を得て構成されたフィクションです。

 

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